【本を読んでぼんやり考えたアニメと世界と社会の話】

最近、美学の授業でちらっと紹介された(ラカンの引用部分だけだったんですけど)本を買いました。東浩紀の文芸評論です。

---


『セカイからもっと近くに(現実から切り離された文学の諸問題)』
東浩紀
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%81%8B%E3%82%89%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%E8%BF%91%E3%81%8F%E3%81%AB-%E7%8F%BE%E5%AE%9F%E3%81%8B%E3%82%89%E5%88%87%E3%82%8A%E9%9B%A2%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%96%87%E5%AD%A6%E3%81%AE%E8%AB%B8%E5%95%8F%E9%A1%8C-%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E6%9D%B1-%E6%B5%A9%E7%B4%80/dp/4488015360


---
(今やちょっと古めかしい言葉でもある)セカイ系についての評論で、新井素子・法月綸太郎・押井守・小松左京を取り上げています。1300円です。面白いんだけどちょっとボリュームは足りないかも。
そこで、セカイ系とは要は「象徴界の失墜による想像界と現実界の短絡」と書いてあるんですけど、これだとラカンをかじってない人にはわかりにくい。噛み砕きます。象徴界、とは簡単に言えば「ルール」「システム」「構造」みたいなもの、で、想像界とは、文字通り「イメージできるものたち」で、現実界とは「わけのわからぬ、絶対に触れられないアレ」です。
もっと噛み砕きます。象徴界とは「政府」「社会」「科学」とかで、想像界は「ぼく」「きみ」で、現実界とは「運命・超世界」です。
すなわちセカイ系とは、「社会とか科学とかもうそんなのいいから、きみとぼくが世界の命運を握っちゃう」的なものたちということです。

その筆頭が『涼宮ハルヒ』シリーズです。ここはこの本の受け売りです。
『涼宮ハルヒの憂鬱』の冒頭でキョンがよくあるSF的な世界観、具体的には"宇宙物語"への失望が語られます。宇宙とは、戦後科学が生み出した一つの神話です。人類は宇宙を目指すとか、宇宙人とか、そういう「物語」です。(絵空事、という意味ではありません)
ともかくそういう世界観にはウンザリなキョンが、ハルヒという「とんでもないルール無視の存在」に出会う、というのが『ハルヒ』シリーズなのです。
「象徴界」はもうウンザリで、「現実界」世界の命運、が「想像界」ハルヒとキョンという個人の関係、と繋がる。
僕は『アルマゲドン』も実は『ハルヒ』と同じ構造を持っていると思います。物語は「超巨大隕石」の接近から始まります。これはさっきで言う『現実界』ですね。「もうどうしようもねーもの」です。これに対して、この映画が馬鹿にされる理由の一つでもあるんですけど、「なんかギャグみたいな科学者」と「なんかギャグみたいな政府」が登場して、結局しがない土木屋(ダイハード)に、隕石破壊作戦が託されます。

展開がバカすぎる。
大体の視聴者はここでこういう感想を抱きます。
しかしこの物語は、「ダイハードとその娘の愛の奇跡」と「隕石から地球を救う」が繋がることが大事であって、その間にある政府とか科学とかは添え物程度でさっさとフェードアウトしてくれないと困る。「非政府」で「非科学」な世界系の映画、それが『アルマゲドン』です。
この、社会とか科学の失墜、というものが、(これも受け売りなんですが)『日本沈没』映画化考察で表れています。小松左京の原作『日本沈没』は、日本が沈没するという「現実界」的な命運に対して、科学・社会がきちんと描かれていました。それが、平成になっての映画化で、「愛が日本を沈没から救うぜ」的な内容になった。今の時代においての「象徴界の失墜」が、映画化という変換でよく表れているわけです。


---


なぜ「象徴界」は失墜したのか?
なぜ人々は社会や科学へ夢を抱かなくなったのか?

社会への失望(というより、社会と向き合うことの失望)は、学生運動の失敗に起因します。デモが不発に終わり、社会へ接続することの虚無感が襲う。科学への失望は、おそらく「アポロ11号」が月に到達した後のなし崩しの失速です。そのあたりから科学の主役は、宇宙という"サイエンス"から、"テクノロジー"に移り変わる。これは社会への失望と関係します。「ひきこもり」と「インターネット」が並べて語られるのもそこにある。人々の象徴界は「社会」や「科学」から「コンピュータ・インターネット」という構造体に変わっていき、世界-自分-インターネットという世界観が跋扈するわけです。
そこからマトリックスなどの映画が生まれ、「サイエンスや社会よりももっとバーチャルな構造体」への注目が始まります。話を飛ばしますが、その「ITバブル」も今は鳴りを潜め…(2ちゃんねる→ニコニコ動画→Twitterという時流で、インターネットは象徴界から想像界の存在へと移り変わります)。
「つづきはWebで!」という言葉が流行ったのはいつごろでしょうか。あれは、「電子の海」が「電子の海水浴場」、身近の延長になり替わったことを如実に表す言葉です。
同様に、文学やアニメにおいても「象徴界の代わり」が要求される。それを、東は「家族」(新井素子)「恋愛」(法月綸太郎)などが埋め合わせ世界を保っている、と指摘します。


---


ここからが本題です。

東浩紀はこの本の第三章で押井守を扱います。押井守の「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」と「スカイ・クロラ」を引き合いに、「ループによる無力感」を論じます。ゲームで言えば「セーブなしのゲームオーバーからまたニューゲーム」をし続ける主人公と、「強くてニューゲーム」をし続けるヒロインという二つの視点が重なる構造の話です。
「社会にアクセスしようとしてもなにもできない無力感」を、押井は「何をしても初めに戻ってしまう」ループの世界観で表しつつ、「それでもそのループは少しずつ変化していく」というささやかな希望を込めて表現している、という話。
ここで象徴界の失墜を埋め合わせるのは、「ループという絶望の中の些細な変容という希望」なわけです。

ここで勘のいい人はお気付きでしょうが、ループ構造と言えば『新劇場版ヱヴァンゲリヲン』です。作品自体について考察すると面倒なので省きますが、ともかくこの作品はループをテーマにしています。
エヴァシリーズはまず地上波で放送されました。そして旧劇と呼ばれる映画「DEATH/REBIRTH」、十数年の時を経て「新・劇場版」です。
まず地上波のラストについて、ネタバレっぽいですが、これは「ゲームオーバー」です。すべてが「キャラクター」に帰して、想像界から変貌して壊れてしまう。という形の、「全てバラバラになる」、人間でいえば精神崩壊的なエンドです。
そして旧劇。これは「ノーマルエンド」です。無力感からは解放されないが、ともかくn+1週目に移ることは出来る。一応物語はまあ妥当に終わる、という形のもので、(アダムとイヴ的な感じで)ループが強く示唆されます。ちなみにアダムとイヴ的なループ観は『日本沈没』でも登場するようです)

では「新劇」とは何なのか。先に言ってしまうと、「ループからの脱出起動」です。ここからはこれがキーワードになります。
はじめ新劇「序」はループを踏襲する形で物語が進みます。旧劇と同様、地上波のダイジェスト的に…そして、「破」ではまるで"ループごとのブレ"のごとくに、キャラ名の変更や性格の変更・新キャラなどなどが出現します。
「Q」が問題です。「破」ラストで渚カヲルが「ループからの脱却」を示唆したとおり、ここでついに物語はループから外れ新ステージに進みます。そこにおいては、すでに「襲撃する現実界」たる使徒は消滅し、ネルフとヴィレの対立が世界の中心に成り替わっています。主人公たるシンジくんはそこから疎外され、カヲルくんとともに「世界の秘密」に触れる。

中盤のシンジくんとカヲルくんのホモホモしい描写は、単なる流行への狙いではなく、「アスカ」からも「ミサト」からも疎外されたシンジくんが、カヲルくんという創造的関係に依存する様をきちんと表す。逆にいえば、カヲルという存在に捺されて、ミサト・アスカは「想像的存在」から「象徴的存在」になったのです。
これは、「組織の対立」→「政府による戦争」という象徴界の存在から、やはり想像界の存在「シンジとカヲル」だけが疎外され「世界の本当の命運」に繋がる、という構造です。ほれみろやっぱりセカイ系だ!

しかし重要なのは、「象徴界の再来」です。
ハルヒにおける「社会」のようには、新劇エヴァの「戦争」は追放されません。中盤で存在感を失うも、終盤で合流します。
セカイ系物語は再び「想像・象徴・現実」が揃い、「きみとぼくが世界の命運を〜」とは単純に語れなくなります。
エヴァには連載漫画版もあります。それは地上波・旧劇からしばらく遅れやっと最近完結しました。これも二者とは違う結末を描いており、やはり「象徴界」が襲来してきます。
さて、セカイ系において「期待できないもの」「向かい合ったって無力感しかないもの」として追放された社会がここで再び復権するのです。


---


同じループの作品で最近記憶に新しいのはもう2つあります。
再びハルヒから『エンドレスエイト』、そしてまどか☆マギカです。

『エンドレスエイト』はループの世界観を、「何回も同じ話を放送する」という商業媒体としてはエキセントリックな方法で表現しています。これは何を表すのか。
ちょうどこの頃僕はエンドレスエイトを視聴していたというより、正確には「エンドレスエイトで盛り上がる掲示板やSNS」を通して認識していました。それで思いついたのが、2ちゃんやニコニコの「実況」文化の最もたる化学反応が生まれたわけです。もちろん実況するストーリー自体は先週と同じなので、視聴者は「また同じだよwww」と言いながら、「もしかして細部が違っていて伏線になっているんじゃないか」という観方をします。(実際少しずつ"どうでもよさそうなところが"違う)

すなわち、「現実界と想像界が短絡しているその構造」へ、「その構造の崩壊」を予期してその萌芽を発見しようとする。
先ほど上がった「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」には「文化祭準備の一日がループする構造」が現れます。夏休みとは学校という「象徴界」が存在感を失う時期であり、「文化祭」も学校という象徴界が想像界の存在となる点で共通しています。
全てのズレが合わさり、ついにキョンは「課題は終わってない」という、「課題」「学校」象徴的な存在を思い出すのです。夏祭りやプール・昆虫採集ではない、「学校の宿題」という「世界のシステム」がリブートする。
これもループへの「象徴界の合流」による脱出起動が描かれています。


---


まどか☆マギカに話を移せば、まず地上波放送では主人公まどか自身が「現実界」となるエンドを迎えます。これは先ほどの地上波はエヴァと全く同じ構成の「想像界の存在がぶっ壊れ、現実界の集約して精神崩壊」エンドに近いです。
そして2年後の2013年に「前篇」「後篇」「新篇」という三本の映画が製作されますが、これも「脱線軌道」を描くのは言うまでもないでしょう。最後にまどかは「秩序」と「欲望」のどちらが大切か、と問われますが、「欲望」は人間の根幹をなすもの、現実界の象徴です。(詳しくは精神医学の話になります)いっぽう、「秩序」はシステム、そう、象徴界です。
まどかが選択するのは「秩序」、つまり象徴界との合流なわけです。


---


近年強く印象に残る3つのループはどれも、「現実界と想像界が短絡した」すなわち「きみとぼくが世界の命運とつながる」物語に「象徴界」すなわり「社会」「ルール」「システム」が復権する、という形でループを脱出せんとする、構造なわけです。(新劇エヴァは未完ですが)
さて、今東京では「デモ」が始まりました。世間では「学生運動世代が再来しているだけ」と言われていますが、この実効性はともかく、「社会へのアクセス」がリブートしたわけです。311という圧倒的な現実の襲来も関係しているでしょう。原発は存在感を取り戻し、つい先月、戦争も存在感を取り戻しました。(集団的自衛権の話が戦争に直結するかどうか、ではなく、人々の意識に上ってきた、ということです)。
原発も戦争も象徴界のものです。
そしてiPS細胞という"パンドラの箱"の発明。インフォメーション・テクノロジーは失墜し、ついにロボット・AI・クローン・生命という「人間の知」自体が科学の主役として躍り出ました。


---


今私たちは、「象徴界の合流」による「ループからの脱出」の証人となる時代になるのかもしれない。

何が言いたいかというと、All You Need is Killが観たい!
という話でした。

おわりです