シン・ゴジラについての短い覚え書き ——茫漠として明確な霊——


庵野秀明監督『シン・ゴジラ』について





『シン・ゴジラ』はイメージ引用の賜物である。おおまかに分類すると、①東日本大震災(および熊本地震)などの災害-カタストロフィに際したマスメディア・ソーシャルメディア表現、②『ゴジラ』の引用、③『エヴァンゲリオン』を初めとする物語たちの引用、の三つだ。映画自体はおおまかに、前半のポリティカル・フィクションが中盤のミリタリー・フィクションを経由して、終盤ジャパニメーションおよび日本ドラマ的な色合いへと推移する。
 現代膾炙しているメディアは、白黒テレビ・映画・新聞しかないような初代『ゴジラ』(1954)当時のメディア状況に比べれば大きく増加しており、主にインターネット上での多様化はめざましい。『シン・ゴジラ』(以下、本作)の特に前半での広範なメディア表現の利用は意図的に①を踏襲している。大きく大別すると、指示内容と形式の二つがある。指示内容としては、瓦礫の山や避難区域、深夜の渋滞、あるいは米軍機の出現も加えてもよい。ゴジラ第一形態というカタストロフィックな災禍は、登場人物にも言及されるように「目的もわからずただ移動している」のであり、その「自然災害的」側面が大きく強調されている。一回目の出現時においてゴジラの眼球に注目すると、それは再登場時の哺乳類的な「焦点の合う=対象志向的」な双眸に比べると、爬虫類的な平らで呆然とした目をしており、「愚かさ=動物性bêtise」を強調されている。またゴジラは「どういう理由か」勝手に帰っていくのであり、やはり自然災害的な存在として描かれていることがわかる(「ゴジラGodzilla 呉爾羅」と名づけられ、「神」として定立するのはこの直後のことだ)。
 本作では多様なメディア形式が引用されている。記憶にあるかぎりで、Twitter、ニコニコ動画、データ放送、ガイガーカウンター、空撮、手持ちカメラなどであり、それらもまた自然災害の記憶にじかに結びついている。特に「手持ちカメラ」の映像は『クローバーフィールド HAKAISHA』にも類似しているが、むしろ災害時の「当事者撮影」がメディアに流れるさまを思わせる(たとえば、2014年の御嶽山噴火において多くのメディアで繰り返し流された噴煙の動画)。それは意味的情報量こそ乏しいが、まさに「イメージそのものにおいては運動や混乱、出来事でしかないもの」(ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』)をまざまざと表す役割を負う。本作のスクリーンは、さまざまなメディア形式の映像が同居する、いわば「間メディア」「メタメディア」的な振る舞いを見せる——空撮の映像がニコニコ動画のコメントにつながり、Twitterと呼応し、というように——ことで、そこには「間メディア」的リアリティを打ち立てることができる。先の震災のとき、それは「メディア越しに見られた」機会のほうが圧倒的に多い。むろん震災それ自体を過小視するのではない。震災そのものの出来事とは別に、地上波放送やインターネット越しに流れた映像・イメージ・言説を総合したもの、それが、「非直接被災者」にとっての「震災」そのものである。
 さて、わたしたちは、たしかにゴジラが現れたとき、かならず「メディア越し」に見ざるをえない。それは、肉眼でゴジラを視るリアリティではなく、ニコニコ動画で騒ぎ立て(そして、露悪的に巫山戯る人間もまたおり)、同じ映像資料を地上波放送やインターネットが繰り返し流し、「安全服姿の」総理の会見が放送され、データ放送では複数の速度をもつ「情報」が同居し、そしてTwitterへの一般人の投稿がとくに「現在の事実」に肉薄するような、メディアごとの断片が総合されて立ち上がるリアリティだ。この意味で、本作の前半はおおむね『ゴジラ』というより、そういったメディア状況を再現・変奏したチャプターにあたる。前半のポリティカル・フィクションにおいて、官僚機構的な「手続き」が強調されるのもまた(「特権者」としての陣内栄を据えた『サマーウォーズ』とは異なり)、公的集団のリアリティをよく担保することは岡田斗司夫が『シンゴジラを見なければならない5つの理由』で述べている。これもまた「ゴジラそのものではなく、(それが物語内で)表象化した記号=「巨大不明生物」という名称が跋扈することでの間接的なリアリティと言えよう。怪獣映画には、その怪獣が時代的な恐ろしさを表象するという側面があり、事実初代『ゴジラ』では原子力の恐怖がそこに表象されていたことは事実と認めてよいだろう。いっぽう本作のゴジラは震災そのものの表象とは言い難く、むしろ「震災的恐怖」あるいは「2011.3.11以降的恐怖」を表象する。この表現は東日本大震災以外の自然災害的・あるいは人災的悲劇を矮小化するのではなく、東日本大震災以降日本にまとわりつく恐怖全体の様相を捉えんとゴジラは演出されているという意味だ。また、同じ意味で「311的作品」ではない。本作が大震災のイメージと結びついているのは明白であるが、それは「芸術作品」「文化」としての「311というパラダイム」という幻想に存立しているのではなく、その思想自体は『ゴジラ』はじめ怪獣映画の伝統に則る。強いて言えば、2000~2010年代的な「メディアというモチーフ」の利用こそ本作の重点にある。
 この意味で本作のゴジラは「遠く」「間接的」な存在である。メディア越しの距離・表象の交差的な作用がむしろその存在を補強する点では、それは「キャラクター」的あるいは「幽霊」的な存在の様式ではないか、と記しておく。

 問題は「カヨコ・アン・パターソン」だ。彼女は本作のヒロインの位置にあたるのだが、その人物造形は特に奇怪である。一言で言えば、彼女だけが圧倒的に「アニメ・キャラクター」的なのだ。その造形は『新世紀エヴァンゲリオン』の惣流・アスカ・ラングレーを模倣していることは論を俟たない。日系の名前、英語を織り交ぜた話し方、現実感のない若さ、セリフまわしや仕草は、そこまでの「ポリティカル・フィクション」でのいやらしいほどに「現実」的展開とちぐはぐな印象さえ受け、また彼女が持ちだす「マキ・ゴロウ博士」の物語もまたSF的想像力に急にハンドルを切る。
 この不気味な彼女は一体何なのか、という問いこそが本作の演出的な臍である。端的に言えば、彼女は「間メディア的リアリティ」が「ジャパニメーション的想像力」に合流・回収するための結節点になる。つまり、「ゴジラ-現実・政治的恐怖」が「エヴァ-アニメ-想像力」とすり変わる。この様子についても先の震災の記憶と重なる部分があるが、それは「間メディア的リアリティ」がとりわけインターネットで成長するときに、そこに断片的に存在している「アニメ的想像力」と、部分的な相似性から接続するという点だ。アニメーション的——と今や限定するべきではないが、ここでは文脈の出現時の強調と、本稿での便宜のために形容しよう——想像力の「データベース」はインターネットそれ自体にあるのではなく、サイバー空間を通過する人々の共有する想像力における、個別の作品から遊離した「物語素(材)」の関係的集合であり、それは特定の表象や物語自体との恣意的な接着を免れているため、メディアに流れ込んできた「現実」のなかに「物語素」と相似する部分を発見し、物語として語り直す契機をもたらす。
 すなわち、前半で「自然動物的災害の出来事」として出現したゴジラは、2010年代的なメディア状況のうちで「間メディア的リアリティ」に変換されながら、ジャパニメーション的な想像力の断片を見出され拡大され、「物語」として編まれ直す。

 本作後半、再出現時からゴジラは「動物」ではなく「神霊」として再定置される。「神」としての名をもたらされ、血液を流し、また『ゴジラ』シリーズの伝統的造形に合流したゴジラは、あらためて——「地上」ではなく——想像力の上にこそその礎を置くものとして立ち上がる(ゆえにゴジラは光線を撃つのだ)。そのうえ、最後の戦闘は「ヤシオリ」作戦である。さてこのような作品プロットの「折れ」(災害/物語)は、エヴァンゲリオンの音響の引用や、これみよがしな『やったか!?』という生存フラグの利用によっても演出されるが、なにより米軍空爆後の「覚醒」のときのシルエット表現で、ゴジラが『新世紀エヴァンゲリオン』での暴走した初号機、あるいは『巨神兵東京に現わる』の巨神兵シルエットと重なる点からも明白である。この二作品で当のものはいずれも「神的」性格を帯びているように、ここでゴジラは完全な神霊化が成立する。
 すなわち、『シン・ゴジラ』の演出の明白な目的は、「ゴジラ」の再-神霊-化ではなかろうか。そのとき、崇高な力の強力さだけに担保するのではなく、間メディア的な存在として描くことで、「神霊」の現代におけるアクチュアリティの見直しも同時に遂行する。これは、使徒という神経症的な現実(真理としてのドグマ深部に触れようとする)のなかでエヴァンゲリオンが機能していた「地上波放送エヴァンゲリオン」「エヴァンゲリオン Air/まごころを君に」を継承した『ヱヴァンゲリヲン新劇場版 破』から、複数化したエヴァンゲリオン=神霊こそがリアリティのほとんどを独占し、かつ世界はその乏しさ自体を露出している『ヱヴァンゲリヲン新劇場版 Q』への「折れ」とも比較できる。





2016/8/11 updated