汎人称的物語への寄与とセレンディピティ


伊舎堂仁『トントングラム』について






 航海録はセイレーンとの邂逅に先行するか——という問いへの答えはおよそ否定的なものだろう。物語は、個々の体験を素材に醸成されるものであり、すなわち物語が身体の経験に従属する。日記や呟きをなぞるように身体を生きるのではなく、身体の経験が、意識・無意識を経て抽出あるいは構成されることで、われわれは物語を語る……といった「創作的態度」はしかし、それ自体が相対化されるべきイデオロギーであることに自覚する時期にさしかかっている。演出家・土屋亮一が1999年に立ち上げた劇団「シベリア少女鉄道」の諸作品に通底する構図、それはまさしく「物語に身体経験が奉仕する」ようすだ。本稿執筆時点での直近の公演『君がくれたラブストーリー』(赤坂RED/THEATER, 2016年6月10日-19日)は、物語の断片たる諸科白のセリーに、登場人物が奉仕する——という物語である。演者=プレイヤーには、いかにも〈物語〉的な紋切り型の科白——「ここから出られると思うなよ」「付き合ってよ」「生きるか死ぬか、二つに一つだ」など——が記されたカードが無作為に配られ、「それっぽいセリフで話つなげてみるゲーム」を行う。一周目は終始サスペンス・ドラマ風味で話は展開するが、その時点では観客はそれがゲームであることを明かされない。終盤、カードを使い切って〈あがる〉登場人物が現れ、初めて「科白をその場で繋げてゆく」ゲームであることが明かされる。ゲームの存在がプレイヤーと観客ともに認識された二周目では、〈自らの手持ちのカードを消費せんと、物語を展開させてゆく〉さまが、およそパフォーマティヴに鑑賞されることになる。そこで鑑賞の中心になるのは、おのおののプレイヤーの思惑で、サスペンスから恋愛、またSFや医療ものへと〈物語が屈折・すり替えられる〉ときの相対的差異そのものや、あるいは、一周目で自然に用いられた科白が、二周目ではいささか無理なかたちで用いられるときの相対的差異である。ただし、この構造には大きな隘路が伴う。それは「物語を構成するそのゲーム自体がまた、観客の観ている物語である」という二重性である——が、それもまた劇場外部において回収される。早期鑑賞特典として配布およびグッズ販売されていた「おまけコンテンツ」として、「それっぽいセリフで話つなげてみるゲーム」のデータが配布されるのだ。すなわち、『君がくれたラブストーリー』で行われた二度のラウンドもまた、ひとつの相対的なプレーなのである*1。
 このような演劇のフィクション性あるいはフィクションの演劇性という構成そのものの露呈・露出は、評論家さやわかが同時代の劇団「チェルフィッチュ」(主宰:岡田利規)や「革命アイドル暴走ちゃん」(主宰:二階堂瞳子)と並べて論じるように、「物語の単一的な結構を疑う作品だということができる」*2。物語の構造そのものが露出され、その構造においてそのたび起こるプレー=出来事自体を同時に観るとき、われわれが愉しんでいるのはその出来事どうしの《相対的差異》だ。絶対的に用意されたひとつの構造の潜在的なポテンシャルから、そのときのプレーごとに、他のプレーでは創発しなかったような一回性の歪み、《セレンディピティ》*3が垣間見える。ゲームという構造——卓上のそれであれ、電子的なそれであれ——は、プレーごとに差異を生み出すためのシステムである。
 伊舎堂仁歌集『トントングラム』批評会のレジュメ発表*4において、宇都宮敦が穂村弘『短歌という爆弾』での概念《絶対的驚異と相対的共感》を受けて導出した《絶対的共感と相対的驚異》というキーワードがある。前者はすなわち、深層的な「ほんとうのこと」にたいする表層的な差異であり、「それぞれに例化されることで共感が生まれる、絶対的真実」と言いうるだろう。この「真実が相対例に先行する」という段階性はおよそ本稿冒頭で述べた「物語が身体の経験に従属する」に近似している。つまり宇都宮が『短歌という爆弾』の「非言及領域」として導出した後者は、その段階を反転された、「物語構造が個々の経験に先んじる」という段階性をもつ。すなわち、既に存在する絶対的共感という《物語の雛型》をなぞる個々の経験どうしの相対的差異=驚異への着目である。さらに宇都宮は鴻上尚史の概念《構図〈シェーマ〉のズレ》をも参照しながら、伊舎堂の〈相対的なズレ〉の大小について注目する。

 もうどこも動いてないねどうします うちに避妊具いるけど見にくる *5
 そのときに付き合ってた子が今のJR奈良駅なんですけどね
 男の子ならば直哉、女の子ならば㌧㌧㌘にしよう(ルビ…直哉「なおちか」)

 それぞれの《物語の雛型》は、「終電後に意中の相手を家に招く口実」「過去の思い出のなかの人物が、現在の伴侶である」「子を期待する夫婦の命名の提案」であり、いずれも社会の中で「既知」——そのパターン、知ってる——のもとに共有されている。それらを「非人称的」と称ぶのは、適当ではない*6——むしろ「未人称的」あるいは「汎人称的」と称ぶべきだろう。雛型とはつまりプレイヤーたちによるプレーごとの差異を創発するための絶対的な潜在性であり、それら《汎人称的物語》——物語のキャラクター化、あるいは散種する物語と言ってもいいだろう——はおそらく、「誰もが物語を語る」情報時代とともに成立したものではないだろうか。たとえば上記「そのときに〜」の典型例は「そのときに付き合ってた子が今の嫁なんですけどね」というパターンで、大手掲示板サイト2ちゃんねるなどで散見され、時には回想を語りだすだけで結末をそのように(実際にはそうでなくとも)予測さえされてしまう。ユーザーの多くが「匿名」である2ちゃんねるでは、書き込みが「どこの誰か」によるかは基本的に特定されない*7。「語り部」の身体的唯一性が無化されている——複数の名を使い分けて複数の存在としてスレッドに存在することもできるし、匿名者として同定性すら溶解することができる——ために、その語り自体が〈無人称化〉される。無人称化された語りはその近似するパターンの出現頻度から、「2ちゃんねらー」(2ちゃんねるのユーザー)の集合的無意識に記憶あるいはクラウドとして蓄積され、〈無人称的なパターンの記憶〉として「緩やかな存在の輪郭」*8を得る。
 物語の雛形へ、身体経験はフィードバックとして寄与contributeすることで、そのトリビュートtributeを作る。われわれは、その物語の例示されたバリエーションどうしの差異を享受するのである。ところで、筒井康隆による《超虚構》概念は、「それは非現実感というにはあまりにもわれわれが虚構内体験で熟知している感覚であったことによって、否応なしに非日常的現実性と言おうか擬似日常性と言おうか、そうしたものの境界に入りこんでしまい、デジャ・ヴ的な現象をわれわれの意識内に惹起したのだ」*9と称されるように、虚構の体験がその量的頻度によって現実感を帯びているものを指す。《汎人称的物語》はこの《超虚構》概念を享けて拡張できるだろう。上記の2ちゃんねるのスレッドのようなシチュエーションは、おおよそ既視感の参照元が〈虚構にしか〉ない。ネット上の語りいずれもが実際の経験ではないと断定はできないだが、少なくともその集積はネット-虚構上での「体験」に存している。筒井の《超虚構》性はあくまでSFなどの文学に際して提起された概念であるが、掲示板・SNS文化によって、「匿名の物語が書かれる・読まれる・フィードバックされる」機会が爆発的に増えたことは、《超虚構》現象を引き起こし、クラウド的な汎人称的物語という雛形が形成される礎となっている。「現実にはほとんど起こり得ないし意図的に起すことも不可能であるが故に、少なくとも虚構によってしか得られない虚構感を読者にあたえ、虚構によって虚構の自立性を主張することにはなろう」*10。  すなわち、《超虚構》によって拡張された《汎人称的物語》はあくまで「現実における頻発性」ではなく、「虚構として現れる頻発性」に存して形成される。それは現実感をこそともなうが、しかし必ずしも現実を参照するわけではなく、そして、現実を参照しないわけでもない。伊舎堂の短歌作品にも、「現実というより、むしろ虚構らしい現実感をともなう」ものは多い。

 梅田から23時にバスが出て高速を走り梅田に着いた
 消音の香取慎吾と消音の小堺一機がずっと笑ってる
 ドラマーがドラムをとめて話しだすいつかくる目にあたる日のこと

 「梅田から」「消音の」の二首のシチュエーションは、(筒井が言うような)「不可能」ではない。現実で起こる頻度こそ少ないが、あたかも文芸や映像メディアの表現としての既視感があり、あるいはその〈少なさ≠なさ〉ゆえに現実感を確保している。〈少なさ〉を象徴する歌は他に、「1つだけ黄色の、みえる? 1つだけ黄色のテトラポッドが、みえた」「吹き替えと字幕のでない東洋の男が銃を向けてきている」などが伺える。また「吹き替えと」の歌では、それが「映画内から画面越し」なのか、あるいは「まるで映画のような現実で」なのか、モチーフと語り手との位相関係が宙吊りにされており*11、上記三首目「ドラマーが」における〈語り=虚構の提示の二重性〉とあわせて、伊舎堂の短歌作品における《語る視点と虚構の位相》への注目が伺える。
 あらためて《セレンディピティ》という語を持ち出そう。伊舎堂の短歌作品を受けてその二つの要素を確認すれば、前半で確認した①「絶対的共感=汎人称的物語の例化における相対的な差異」と、②「虚構における頻度の多さと、身体現実における頻度の少なさにおける超虚構的現実感」である。前者の〈大きな物語ではない、小さな差異〉、後者の〈身体現実での経験の少なさ〉をまとめて、〈微視的な固有性〉と改めて定義しよう。「トントングラム」批評会においてフラワーしげるが伊舎堂の短歌作品について「ねじったひねったまげたメモ」「スケッチやメモや感想にしか見えないものもあり、それらの多くは一見したところ、主張にも表現にもなっていない」という表現するように、伊舎堂が提示するものとは、クラウド的な参照関係を情報それぞれが過剰に結んでいる現代において、孤立しかけたスタンドアローンの情報へ目を向ける〈微視的な〉それである。
 短歌の長さのアフォーダンスなのか、いまやTwitter=微視的な語りのシステムのなかに短歌の引用はあふれている。あるいは人工知能による短歌や、まさに無人称的短歌作品*12が登場している。われわれは《セレンディピティ》を身体の現実に還元させるべきなのか、虚構のヴァリアントに還元させるべきなのか、あるいは。




*1 しかし「脚本」の存在論的地位は画定しがたく、これは演劇の再演性および再視聴の問題とかかわる。非常に興味深いが、本稿の射程を大きく逸脱するため、紙幅を鑑みて扱わない。

*2 さやわか,”「演劇を演劇する」とはどういうことか”,『キャラの思考法:現代文化論のアップグレード』,青土社,2015,p.57…直後の記述を引く。「(…)作品の一部に含めることのできない言語化できない条件があり、にもかかわらずたしかにそれが作品を規定するのを認める。(…)だから身体やパフォーマンス性をともなうカルチャーにありがちな「いま・ここ」を共有しているという現場意識すらもいったん相対化しつつ、なお我々が個々の経験に立ち会っていると実感させるのだ。」

*3 セレンディピティserendipityという語は、「幸運な掘り出し物」という意味で多く用いられる。

*4 中野サンプラザ(東京)にて、2016年5月13日13時から16時半まで開催された。司会:田中槐、パネリスト:宇都宮敦, 黒瀬珂瀾, 田口綾子, フラワーしげる。本会の公刊・公開されたレジュメは本稿執筆時には確認されないため、本稿で引用する文献についての信用および誤謬はひとえに筆者の責任に存する。正確な原典を用意できない点をご寛恕願いたい。

*5 本稿で引用する短歌作品はすべて、伊舎堂仁,『トントングラム』, 書肆侃侃房,2015より引用。首ごとの掲載ページ数は割愛する。

*6 モーリス・ブランショの『私についてこなかった男』について、対話ではなく会話を駆動させる「言葉たちparoles」を郷原佳以は「三人称ならぬ非人称」「三-非人称」と称したように、「人ならぬシステムとして自律した言葉」こそ非人(non-personel,人ニ非ズ)称と言いうるが、ここで物語はむしろ「語り部が消去されたのではなく、非単数性へ溶解し、例化されて現勢化することを待つもの」であるため、「未人称unpersonlised」あるいは「汎人称pan-personal」と称ぶ。郷原佳以,「非人称性の在処——解題」, 2008, 思潮社, 現代詩手帖特集版「ブランショ2008」所収

*7 卑近な例として、中野独人『電車男』(2004, 新潮社)が挙げられるだろう。2ちゃんねるのスレッドを書籍化したその物語の語り部は、その筆名の示す通り「中の一人 a one of them」 である。

*8 評論家・村上裕一は、キャラクター「やる夫」について以下のように語る。「(…)とりわけ言及がエクリチュール化されるネット領域においては、言説が我々の手から離れる。つまり我々と無関連化する。そしてその結果、キャラクターにフィードバックされるのである。このような形でキャラクターは緩やかに存在の輪郭を彩られている。(…)あるいは「共同幻想」という言葉遣いがこの状況にフィットするかもしれない」…本稿での「物語のキャラクター化」という言明はこの記述を享けている。村上裕一,”クラウド化した二次創作”,『ゴーストの条件:クラウドを巡礼する想像力』,2011, 講談社, pp168-202

*9 筒井康隆, “虚構と現実”, 『着想の技術』,1983, 新潮社, p.47…評論家・藤田直哉は筒井の「超虚構」「虚構内存在」概念を具に分析し、情報メディア社会たる現代に適応させんとしている。藤田直哉, 『虚構内存在:筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』, 2013, 作品社

*10 筒井, 同, p.51

*11 ヴィト・アコンチの《センターズ》(1971)が思い出される。

*12 百を超える複数人から投稿された「駅をテーマにした短歌」を「一人の作者の詠んだもの」として編集した、洞田明子歌集「洞田」(「太朗」(染野太朗・吉岡太朗)編集, 2015, 私家版)が挙げられるだろう。






2016/10/08 updated