*1 大岩雄典「コンコースで踊る」

*2 東京藝術大学美術学部建築科|大学院美術研究科専攻 TG1708|オブジェクトディスコ

*3 木内建築事務所ウェブサイトより「オブジェクトディスコ」

*4 *3参照。「オブジェクトディスコでは、1:空間の構成要素は、利用者の発見的な読み取りを促すように、単体では意味の希薄なオブジェクト群とすること、2:全体を統合する形式は、辞書の50音順のように読み方を限定しない秩序立てにより、公共性を獲得することが目指された。この辞書的な形式の成立には、オブジェクト群同士に定義された関係と、日用品・二次的な他者介入とオブジェクト群との偶発的な関係が等価に存在できること(僕らはこの等価な創発状態を「ディスコしている」と呼んでいる)が鍵となる。設計される関係の定義には自由連想を核としたチャンス・オペレーションの方法(1950年代の実験音楽に端を発する偶然を利用した制作手法)が試みられた。休憩するベンチ、敷地を守る車止め、通り抜けのための敷石に、環境を高質化する要素を付加し、コンテクストとの関係を編み込んでいった。」…またここで「辞書的」という形容は、当初から一貫した読解を要求する「小説的」という形容に対比させられている。

*5 あるいは、「布置関係constellation」といった語を用いてもいいかもしれない。ジル・ドゥルーズの用語として知られる「ダイアグラム」は、あくまでフーコーの議論をもとにして「社会領野の全域と共通の広がりをもつ地図であり、地図作成法」(『フーコー』)という、政治的な概念として提出されるし、『千のプラトー』においては、パースの記号三分類にたいして、脱領土的なものとして並置されるため、以降の議論にはそぐわないようにも思える。いっぽうで、「星座」という意味をもあらわす「布置関係constellation」という語は、ヴァルター・ベンヤミンが『模倣の能力について』に登場する語だ。「つまりそれ〔記号学的側面に併置した、ひらめきに結びついた人間に類似の創造・知覚〕は、すべての言語以前の読み方であり、内臓から、星座から、舞踊から読みとることにほかならない。」とそこで述べられるように、本論の議論には適切に思える。ただし本論では、恣意的に「ダイアグラム」の語を用いる。ひとつとしては、電車の「ダイヤ」という語の連想から、〈駅〉や〈コンコース〉という比喩を駆使した「コンコースで踊る」を引き継ぐテクストに用いれること、またそれ自体が「グラム=書くgram」という意味を有しており、「書き直しの可能性」を開くような動的なイメージがあること、「星座」という語がたいして静的に夜空に浮かんでいる印象をもつこと、そしてなにより、ブラウザ上でカタカナが六文字並んでいるその視覚的印象が、本稿の主題としての「ダイアグラム」を、心理的に目立たせると思われるからである。

*6 グレアム・ハーマン『四方対象』(2010=2017, 岡嶋隆佑監訳, 人文書院)、「代替因果について」(2007=2014, 岡本源太訳, 青土社『現代思想』2014年1月号所収)、『Weird Realism: Lovecraft and Philosophy』(2012, John Hunt Publishing)を参照。また「魅惑allure」については、飯盛元章「断絶の形而上学:グレアム・ハーマンのオブジェクト指向哲学における「断絶」と「魅惑」の概念について」に詳しい。「〔魅惑は〕感覚的オブジェクトのかなたに、汲みつくしえない余剰をともなった実在的オブジェクトが存在するということを、つまり関係しえないものが存在するということを暗示する」

*7 イトスギのメタファーの例は、飯盛,上掲が、ハーマン『ゲリラ形而上学 Guerrilla Metaphysics』(2005)から紹介している。


*8 「コンコースで踊る」の議論を、J.J.ギブソンを介して機能性に接続する提案は、2017年12月12日に開催されたトーク「「もの」について考える」で提示したものである。このトークは、PRISMIC GALLERYで開催されていた「能作淳平展」(2017.11.11-12.24)に際して行われた。トーカーは能作淳平と平野利樹。当日はさらに、複数の性質が混ざりあった例として、マウリッツ・エッシャーの版画《滝》を参照した。そこでは水の質感のリアリズムがその筆致のテクスチャーによって表されると同時に、平行遠近法によってのみ可能になる奇妙な立体が理知的に捉えられることで、「流れるはずがないが、流れている」という、撞着したイメージがプロデュースされているのだ。騙し絵やアンビグラムなどはそうした記号のダイアグラムの再構成を積極的に利用しているが、エッシャーの〈デッサンされたリアルな質感〉は注目すべきだろう。

*9 J.J.ギブスン『生態学的視覚論』(1979=1985, 古崎敬ら訳, サイエンス社) 第8章が「アフォーダンス」に割かれている。

*10 二人展『理想の収納』(大岩雄典・吉野俊太郎, 東京藝術大学大学会館展示室, 11/7-10)

*11 C.S.パース『記号学(パース著作集)』(内田種臣編訳, 1986, 勁草書房)、また米盛裕二『パースの記号学』(1981, 勁草書房)参照。

*12 ジャック・デリダは『根源の彼方に:グラマトロジーについて(上)』(1967=1972, 足立和浩訳, 現代思潮新社)で、こうしたパースの記号学のモデルを評価し、以下を引用している。「シンボルは生まれる。それは、他の諸記号からの、とりわけイコンからの、あるいはイコンとシンボルの性格を共有している混成的諸記号からの、発展によって誕生する。われわれはただ記号の中でのみ思惟する。これらの心的な記号は混成的性格をもつ。それらのシンボル的部分は概念と呼ばれる。もし人が新たなシンボルを作るとすれば、それは概念を含む思惟によってである。それゆえ、新たなシンボルが生まれるのは、ただシンボルからのみ可能である。Omne symbolum de symbolo〔すべてのシンボルはシンボルから〕。」

*13 佐藤守弘「遺影と擬写真:アイコンとインデックスの錯綜」(2013, 神戸大学美学芸術学論集vol.9所収)。佐藤はパースからの直接の引用も紹介している。「ただの〔写真の〕プリントそのものは情報を伝えないけれども、それが実質的には別の仕方で知られているものから投射された光の断面であるということによって、それは命題的記号になっている」(パース『記号学』)…こうした、指標記号性そのものを、そのプリントの性質自体が示しているという経験・知識が教育されることから、パースは写真を見る経験について語っている、とブノワは紹介しており、佐藤はそれが。ジェフリー・バッチェンが「Vernacular Photographies」で言う「写真の認識論的現前」に相当すると整理している。

*14 佐藤, 上掲。

*15 佐藤, 上掲。

*16 甲斐義明編『写真の理論』(2017, 月曜社)所収の、ロザリンド・クラウス「写真とシミュラークルについての覚書」に寄せられた甲斐による解説を参照。/参照:「シミュラクルは自己の内に示差的な観点を含み込んでおり、観察者の方は、自己の観点とともに変換され変形されるシミュラクルには、狂気-生成、無限界-生成がある」(ジル・ドゥルーズ「プラトンとシミュラクル」,1969=2007, 小泉義之訳,『意味の論理学 下』河出書房新社 所収)

*17 Charlotte Cotton, Photography is Magic, 2015, aperture。後藤繁雄監修・深井沙和子による邦訳『写真は魔術:アート・フォトグラフィーの未来形』が光村推古書院から出版されている。

*18 ロザリンド・クラウス「メディウムの再発明」(1999=2014, 星野太訳, 月曜社『表象08』所収)。クラウスはベンヤミンから「芸術の複数性」という語を引きながら、「すでに意義を削がれた一般的なgerenalものによる包囲から、固有なspecificものを取り戻すこと」を目論む。この「固有のspecific」でなく、ある特徴を「仮-固有」するための、メディウム一般に関する流動的な考え方を本稿は提案しているといえるだろう。

*19 さてここで、「写真」「絵画」なり「彫刻」なりを性質-記号のダイアグラムへと還元することは、ハーマンの用語でいえばすなわち「上方解体overmine」しているともいえそうだ。では、ある芸術的オブジェクトにそうしたダイアグラムの変形が適用されて「彫刻的」「絵画的」「彫刻的」とされるというのも同様に上方解体なのだろうか? そうではない。それは鑑賞という時間的推移において次々に見出される「絵画的」「彫刻的」という性質であり、その意味で芸術的オブジェクトは、そのたび「絵画的」、さらにまた「写真的」(あるいはその鑑賞のあいだにまた別のダイアグラムへと変形しえた「絵画的」)な性質を、その固有の潜勢力から新たな記号が見出されてはダイアグラムを再編集させつことで、延々と湧出しつづけるのである。ダイアグラムは、あくまでその場その場で「半端に見出される」にすぎないものであり、ハーマンが素朴にしか言及しなかった「感覚的性質」の複雑なヴァージョンでしかないのだ。そう考えると、やはり絵画や彫刻というオブジェクトをダイアグラムと見なすことそれ自体も、必ずしも上方解体といえないのではないだろうか。ダイアグラムはなお変形しうる、すなわちそのメディウム概念の運用に際してさまざまに、いまだ汲み尽くしえない新たなそのメディウムのあり方として新たなダイアグラムを湧出しえるという点で、潜勢力をもっているのではないか。それはおそらく、「絵画の死」という悪名高いフレーズと関係している。絵画だけでなく、あるメディウムに死を突きつけるというのは、政治的な修辞以上の意味にはならない。メディウムを理論的対象として形容詞化することは、それを物質的支持体へ「下方解体undermine」(ハーマン)あるいはその固定された使用法へと「上方解体」するようなモダニズム的言説にたいして、むしろ「慣習conventions」がその「技術的支持体の物質的諸条件」というオブジェクトについて運用しつづけることがその汲み尽くしえなさを言説のうえで担保するための取り組みなのだ。クラウスはかくして、写真Photographyそのものが永久に魅惑を吐き出し続けうるようになる「霊薬elixir」を使用したのである。