*1 二人ともプロフィールはトーク当時

*2
 パフォーマーの表情の「必死さ」について、トーク後大岩がツイートしている。以下に引用する。
 「ところでこの作品、脱出ゲーム的だが、あくまでパフォーマンス映像なので、プレイ動画になっている。しかし、パフォーマー自身がルールを敷いて、攻略法も知っている。そのうえで注目すべきは、この主人公=作家自身が、悩んだ演技をしているところだ。いかにもな表情。




(Screen Shot from the video)

ちゃんと一回失敗してから解法をパフォームするし、悩んでいるような表情が大写しにもなる。スピードランできるのにしない。模範的プレイ、レクチャー的。(レクチャー的だから、鑑賞者も、提示していないルールにだんだん寄り添っていける?)重要なのは、このコテコテの俳優の演技が、いかにも『M:I〔ミッション・インポッシブル〕』シリーズのトム・クルーズを参照しているところだ。その点で、パフォーマーがパフォーマンスをおこなう対象(インスタレーション、ルール)はゲーム的でありながら、鑑賞体験としては映画性を強くはらんでいる。二重化。
 トム・クルーズとゲームといえば、言わずもがな『オール・ニード・イズ・キル』だ。「アクション映画とは、ごまかしの効かない一回限りの生を、過剰なかたちでフィルムに定着させる形式とも看做せる」とnoirseのゲーム映画論(『人間から遠く離れて』所収「ゲームの国のアリス」)は論じており、その実践者として、クルーズは、さらにアクション映画から、ループ性やアイデンティティの問題をはらむような映画に取り組んでいた、とまで指摘する。Goetschalckx〔ゲチャルクス〕のこの作品のタイトルは『1 STORY』である。storyとは、話であり、階層を指す語でもある(「二階建て」はtwo-story buildingだ)
 ゲームプレイ動画の文脈が、こうして肉体的パフォーマンスに転じることで、生の一回生をアレゴリカルに提示する映画的仕掛けをはらむことができる。たとえ演技でいようと、彼はプレイヤーにあたると同時に、プレイヤーキャラクター自体を表象してさえある。それは「Third Person」ゲーム的なパフォーマンスだ。私たちはゼルダをプレイしながら、リンクの疲れた表情、怪我したときの痛そうな表情を見ることができる。これは、インスタレーション芸術における鑑賞者=プレイヤーの「First Person View」性を比べて語るべきものだろう。
 インスタレーションは容易に一人称プレイアブルに構成できるが、パフォーマンスやましてたその記録映像はいかにして三人称プレイアブルにできるのか。そのヒントには、やはりnoirseが挙げる『タイタニック』が参考になるだろう。前半のデートパートは、後半の脱出パートのチュートリアルになっており、観客は船内の状況=条件を把握しておくことで、潜在的にそれをプレイアブルにできる。二人が脱出するシーンは、まるで(そんなにうまくない)プレイ動画のようにさえ見えるだろう。「チュートリアル」、ルールの掌握と、プレイの潜在化、今後考えていけそうなものだ。「チュートリアリティ」」(2019.2.25)


*3 松永伸司さんのresearchmapに、スライドがアップされています。PDF

*4
 本トーク直前に同会場で開かれたアーティストトーク「スローアクターのつくりかた」(大岩雄典、聞き手:奥泉理佐子、砂山太一)。意味がつぎつぎ提供され、見切ることの尽きないインスタレーションについて、それをひととおり理解したと鑑賞者が感取するためには、それらの意味をまとめあげうる〈オチ〉が必要になる、というモデルについて、推理小説における推理や「焦燥」(ブランショ)などの概念を手がかりに考察した。また、「re・だんだん・see」最終部の「理解のピーク」に関する部分も参照。

*5 松永伸司, 2018,『ビデオゲームの美学』, 慶應義塾大学出版会, pp.180-186

*6
 大岩の2015年の個展「わたしはこれらを展示できてうれしいし、あなたはこれらを見てうれしく、これらは展示されてうれしい」(TWS渋谷)の英題は「Pleasure」であり、これが美学における〈快〉の訳語である点を、同展のギャラリートークで星野太が指摘している。
 「ちなみにpleasureというのは、美学的な用語でいうところの「快(Lust)」の英訳でもあります。これはカントが趣味判断(美的判断)を論じるときに使っている言葉ですが、それによると「快(pleasure)」というのは、あるものを美しいとか崇高であるというように、「美的(エステティック)」に判断するさいに発生する感情だということになっている」(星野, 大岩雄典『わたしはこれらを展示できてうれしいし、あなたはこれらを見てうれしく、これらは展示されてうれしい』ギャラリー・トーク

*7 松永伸司, 同, p.158

*8
 「フックショット」は、任天堂のアクションRPG『ゼルダの伝説』シリーズに登場するアイテム。鎖で伸びる楔のようなデザインで、向けた方向にまっすぐその楔を延ばすことができる。楔が木製のものに突き刺さると、鎖が縮んで、プレイヤーの身体のほうがその楔の刺さった場所へと引き寄せられる。このアイテムを高所の壁や遠方の宝箱などに使うことで、徒歩では移動できない場所へと空中を一直線に飛んで向かうことができる。

*9
 展示における許可/禁止については、大岩が、2017年に参加したグループ展「Surfin'」について短いテクストを書いている。同展は私有地であるマンションのワンルームで開催されており、配布されたハンドアウトには、防犯等の配慮のための指示が多く記されていた。参照:サーファーの三つのテクストより「展示における禁止について:山本悠のステッカー」

*10
 ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』(1984=1987、山田登世子訳、国文社)では、「場所/空間」という対立項にあわせて、「地図(map)/順路(tour)」という対立を提示している。
 まず「場所/空間」から説明すれば、前者は「各々のポジションが一挙にあたえられるような配置」であり、後者は「方向のもつベクトル、速度、時間という変数などを問題としたときに存在する」。いわゆる幾何学的な位置関係こそが「場所」であり、そこをある個人の身体が通過していくときに「空間」となるのだ。
 「地図」は「場所」に対応する。「子供部屋の隣が台所」と記されたフロアプランのように、ロケーションの内部に存在しない(俯瞰などの)一点から記されるものだ。たいして「順路」は「空間」に対応し、「右へ曲がると居間に着きます」と述べるような、航行する身体経験をモデルにしている。
 レインフォレスト・スカリー=ブレイカーは、ド・セルトーのこれらの概念を援用しながら、ビデオゲームの「スピードラン」実践を論じている。大岩による訳出があるので参照。【翻訳】レインフォレスト・スカリー=ブレイカー「〈実践される実践〉:ド・セルトー、ヴィリリオとともに空間をスピードランする」

*11 参考:J.L.オースティン, 1962=2019, 飯野勝己訳, 『言語と行為:いかにして言葉でものごとを行うか』講談社

*12 「探さない。見つけるのだ」(ピカソ)——アレッサンドロ・ベルティネットは「芸術的運(artistic luck)」という語で、芸術制作における、作者の意図を超えた偶然の成果について論じている。Alessandro Bertinetto, 2013, ’On Artistic Luck’ in “Proceedings of the European Society for Aesthetics, vol.5”

*13 「光るグラフィック展2」(クリエイションギャラリーG8、2019.2.22-3.28)。公式サイト:http://rcc.recruit.co.jp/g8/exhibition/201902/201902.html

*14 *9を見よ。

*15
 参考:レフ・マノヴィッチ、2017=2018、久保田晃弘・きりとりめでる訳「インスタグラムと現代イメージ」、久保田暁彦・きりとりめでる共訳・編著『インスタグラムと現代視覚文化論:レフ・マノヴィッチのカルチュアル・アナリティクスをめぐって』、ビー・エヌ・エヌ新社 所収。同所収の、筒井淳也「写真の理解可能性——計量社会学とインスタグラム」、久保田晃弘「カルチュラル・アナリティクスの過去・現在・未来」も参照。
 あるいは絵画について、人工知能を用いて作品のもつ数量化可能な性質を大量に分析し、絵画史的な転換点との一致を検証した論文がある。Ahmed Elgammal, Marian Mazzone,Bingchen Liu, Diana Kim, 2018, 'The Shape of Art History in the Eyes of the Machine' arXiv.org

*16
 「「どれをどれぐらい見るか」「どの領域にあるものをどれぐらい見るか」「同じものを何回見るか」という判断が、美学的な判断として重要になってきていると思います。これは個々の作品についての趣味判断とは全く別の、完全に量的な判断ですが、それがあたかも趣味判断であるかのようにすり替わってきているのが昨今だと思います。趣味というのは文字通り「taste」で、何かを「美味しい」と言える能力のはずですが、それが、「俺はこれをこれだけ観た」という領域に、芸術的なものの経験の比重がかかるようになってきている」(福尾匠, 「スローアクター」トークイベント「re・だんだん・see:一望できないものの設計と批評」

*17 参考:「双子のステップ:古畑任三郎シリーズ『今、甦る死』『ラスト・ダンス』について」

*18 「ブライアン・オドハティという人が言った「カルテジアン・パラドックス」=「デカルト主義的逆説」という言葉があるのですが、これはホワイトキューブ、または美術館へ人が入るときに純然たる眼の人になるということです。たとえば、美術館に入るときに身体を入り口に預けるわけです。肩に食い込む重い荷物とか手に邪魔な傘とかをコインロッカーへ預ける、つまり身体を覚醒させるようなものを除去するという儀式をとり行なわないと美術館へ入れないわけです。そのあとの身体というのは「眼を運ぶ運搬機」に過ぎない」(青木, 建畠晢+青木淳「美術館の現場から[2]」, 10+1 website)
 ここで言及されているオドハティの著書は、Brian O’Doherty, Inside the White Cube: The Ideology of the Gallery Space, Univ. of California Press, 1999。