眠りの微光 ――情動的蒙昧か、蒙昧的情動か


中家菜津子『うずく、まる』について





「混ざること、速度を加速させること、顔になることという平面上の複数の効果を通じて、風景の諸要素は感受の性質を帯び、その動的な集合は人間的な内的感情や意識をもたないという意味で空虚な、非人間的で物的な情動を生み出す。そこでは、われわれの情動も抽象化され、岩や木が混じり合う情動と同一平面に置かれる。」*1荒川徹はポール・セザンヌの《シャトー・ノワールの上の洞窟の近くの岩》(1904)について、その筆致がモティーフのあいだに描き出す「情動affect」に言及する。荒川は同テクストにおいて、《割れた壁の家》(1892-94)について美術史家メイヤー・シャピロを参照しながら「そもそも亀裂の線は(描かれた建物の)一階と二階に多層化されており、単独的な痕跡ではなく、まさに複数に裂けるようにして随所に偏在化され、〈亀裂―大地―岩―木の枝〉の物的かつ抽象的な配置が形成される」*2と詳細に説明している。無機物たる自然物や建築物の交感が、セザンヌの線描における相似や角度の一致において見出し得る。1859年生のヴィンセント・ファン・ゴッホは、1839年生のセザンヌより一世代若く、印象派およびポスト印象派という名において同様の系譜に位置づけられ、「タンギー」の画材店にてセザンヌの絵画を研究していた。ゴッホの絵画には中期セザンヌと類似した筆跡が認められ、《星月夜De sterrennacht》(1889)も例外ではない。渦巻く空、縁どられた星々の光、高く伸びる木の影、山々の斜面に沿うようなストロークはそのまま空の風のストロークと一致し、また家々の屋根の斜面にも一致する。原題を直訳すれば「星の夜」であり月が取りざたされぬように、月と星の表現は意図的に揃えられているように見える。明るい黄色の星および月は点々と円状に白色に縁どられ、それらは相似形を成す。またとりわけ顕著であるのは、中央下付近に描かれた教会と思わしき建物の高く空へ伸びる屋根であり、同様の延長性は高くそびえる木の陰にも相似的に見出し得る。《星月夜》にもまたモティーフどうしの感応が見出されるのである。
 中家菜津子『うずく、まる』の表紙には《星月夜》があしらわれている。本稿の主題は中家の詩・短歌(以降、「中家作品」と称す)の「情動」とその「眠りの微光」についての考察だ。本書の批評会にて、パネリストを務めた染野太朗は中家作品を「観念的」、その「瞬間」性は物語性とは異なるものだ、と評した。*3ここで「観念=理念idee」という言葉が用いられる対照項は「固有の身体の経験」だろう。同様に染野が中家作品における「二人称」――きみ、あなた、君――が、「特定の人物」を浮き上がらせないと評した点も、その一環であると言える。すなわち、中家の短歌で読み取りうる情景はその固有性を捨-象されている。中家作品の物語りは写実主義的なべたつきがなく、それは染野が「映像」「匿名」という言葉で表現する*4、「スクリーンの平板さ」だ。本書は大きく二部に分割され、物語性の欠如は特に前者で顕著であるが、それについては後述する。
 中家作品の特徴として挙げられるのは、本批評会の一つのテーマである詩型の柔軟さとともに、その音韻的効果への執着だ。

 ばらばらになったあばらを海原にばらまけば
 渦潮
 しばらくは未来にしばられる
 一度も晴れたことのない素晴らしい闇に浮かぶ
 銀河
 そのまばらに散った青い星の上に
 荊の蔓を渡るバランスであなたは立っている
 散緒が切れるまでのあいだ *5

 (ルビ:散緒…「ばらお」)

 過剰とさえ言える「ばら」の応酬は、用いられる言葉の表象的な意味より前景化する。この連を縫い合わせる「ば-ら」音同士の感応をはじめ、中家作品において言語の音の側面はしばしば前景化する。

 ナボコフを声にしてみるうすあおい舌でころがす氷のかけら *6

 耳もとで低くささやく声だけに風と名づけるルテシイアキス *7

 くろがねならばピストルが美しい(し)ね
 (中略)
 ほ、た、る、こ、い
 う、ち、お、と、す *8

 雨に鳴く鈴虫の音をつぶやいて しゅうりん りんず りんかねーしょん *9

 言語の意味より音が前景化するという感覚は、究極的には「意味を知らない言葉」「発音が前景化する言葉」、あるいは固有名詞において私たちが受けうる言葉の異邦性だ。

 胸中の洗濯機には乾燥の機能はなくてブエノスディアス *10

 ササン朝ペルシアにひいた水色のラインはかすれ遠雷を聴く *11

 かえりたくない日にしりとりくりかえすかなりあありあありかかなりあ *12

 天の川銀河のこの星この国で最も寒い地方都市の外れに、三百人ほどが暮らす小さな集落《etanpet》がある。*13

 一々は挙げないが、また頭韻や同子音への執着も中家の特徴であり、いずれにおいても「音どうしの連関」――あるいは連鎖と言ってもよいだろう、石川美南が詩「散緒」を挙げて指摘した、「一行目が書かれているとき、まだ二行目が存在しない気がする」、すなわち一行目を受けて二行目が生成される、という連鎖――それは「しりとり」というモティーフに色濃く表れている……しりとりほど、「音のみで連関している」ものもない――が言葉を「自走」させる車軸を担う。また「視覚韻」と呼ばれるような、「字面」での近似や一致も見られる。

 紙を折る、浅い眠りに降るチョークの雪、混濁の半分を祈る *14

 かさなりあった花びらのうちに渦まいている微や裸の音が
 みどりがかった五月の空の一隅を微かに震わせる *15

 (ルビ:一行目の微…「び」、裸…「ら」)

 中家作品の言語の接続は、表象上の繋がりに同じもしくはそれ以上のレベルで、「言語の物質性」へ依拠している。それは事後的経験ゆえに一次的な接続だ。湯浅博雄はモーリス・ブランショの言語論を解釈する。「文学におけるランガージュは、自らの本質的な力が〈表象する能力〉にあるのではなく、いわば〈一次的な〉と呼びうる力の存する、ということに気づいていく。つまり、分節化されていないなにものかを〈始原的に模擬する〉という本来的作用を絶えず再開始する力に存する、ということを自覚していく」*16 言語において先行する事象を描写する能力はむしろ派生的応用であり、言語は書かれて事後的に事象を生み出す。さてここで引かれるブランショはフランツ・カフカとともに、アレクサンドル・コジェーヴによるヘーゲル理解を下敷きにしながら言語の「名づけ-無化能力」――否-名nomを与えるアダム――へ思考を経巡らせた。すなわち、「この命名の瞬間から、猫はそれ以降もうもっぱら現実的な実在であることを止め、それと同時に一種のイデー(観念・理念)にもなったということである。」*17 ――観念! そう、名づけることで語はものを観念にする。無化や「ものの殺害」とさえ呼ばれるその能力は、つまり言語の弁証法――生き生きとした「物」を殺害することで、その生と死が揚-棄し、観念として復活する――だ。では、「観念的」と称された中家はその言語の無化を逃れることに失敗したということか。そうではない。中家はその殺害をある種、「見殺し」にしたのだ。殺された物たちに、ふたたび熱を帯びさせる――もしくは、エンバーミング――装置として、固有の身体の経験は機能する。染野が、その語法の搖動が批評に使うには不用意だとして避ける「私性」とは、たしかにその用法にぶれはあれど、基本的に「身体経験」の有り様を問題にする。言語はおしなべて語られるか書かれるために純粋な言語なるものは知覚しがたく、ゆえに言語には必ずペルソナがつきまとう。言語の身体経験はそのペルソナを通じた想像を通してもたらされ、死者は通夜のごとく彩られる。
 すべての短歌は挽歌である。――中家作品は、身体性を後景化あるいは捨象するがゆえにその言語の観念への死にゆきを見殺しにする。むしろ中家作品は、言語における一次的経験が、その音や字面、すなわち物質性を掛金にして構成される。その「語の物質主義moterialisme」は、パフォーマティヴな次元のみならず、コンスタティヴに注目されもする。

 文字は鳥 ひらかれるまで永遠に白紙の空をはばたいている *18

 星図鑑 栞がわりのクリップをはずせば文字が散らばっていく *19

 虫籠に採取された言葉はいつかシソーラスの脱出の項目に載る *20

 ただし中家作品の言語的連関はそのように視覚と聴覚にのみ存するものではない。ここまで検討した「音韻」と「字面」は、「自明する一致」として敷衍できる。

 うずく、まるわたしはあらゆるまるになる月のひかりの信号機前 *21

 スプーンを瞼にあてるおさなごが遠く見ているC *22
 (ルビ:C…「ランドルト環」)

 海岸線のカーブをなぞれば耳朶と相似
 曲流する指の動きに宿るさざ波のリズム
 それは舞踊だと気づく
 ちいさなものにおおきなものを入れ子にして納めるための
 (中略)
 唇や瞼の膨らみに丘や山の隆起を感じ取った
 わたしはわたしをはみだしておおきなものになっていく *23

 ゴッホとかサンドイッチの耳のこと気になったまま学校へ行く*24

 中家作品における「一致」は明瞭をたたえる。音が同じ、字が同じ、形が同じ、曲線が同じ。あるいはどちらも耳。そういった「自明的一致」を中家作品の言語空間は、表象的物語への補填的掛け金にする。経験身体の抽象化された――非人称的な――空間を立ち上がらせるのは、情動的な「音や形の相似が担保する感応」だ。その情動的感応を、詩型の融合による、と安易に因果づけることはできない。同批評会において中家作品は「ステレオタイプな」と批判されるが、それは会場発言で堀田季何が整理したように、「用いられるモティーフの連関」と「価値観」それぞれにおいて見られる。モティーフの連関の典型性というのは、すなわちそのサンプル数の多さだ。サンプル数の少ない連関こそが、それ固有の経験であることを証明――シュルレアリスムの言う「言語間の距離」というのは、その連関の少なさによる経験的な隔たりを指す――する。ゆえに、経験身体を離れ非人称化された中家作品の提供する「風景」は、その代償としてステレオタイプになり得る。いっぽう後者は、会場に取りざたされていたのは「セクシュアリティ」――、とりわけ女性のそれ――の素朴さ・図式化であり、その素朴さを「一周まわっている」と石川が否定的に、遠藤由季が肯定的に評し、また染野が「一周と言うには十分でない」と評したが、それらの峻別や妥当性については立ち入らない。中家作品の呈示するセクシュアリティは、「旧来的かつ素朴」な、近代的「母」のそれである。中家作品のセクシュアリティについて、これ以降の本稿の主題たる「夢」と「母」から精神分析の言説を流用して語ることもできようが、あまりに不用意で、かつ紙幅も足りないため、行わない。
 むしろ注目すべきは、染野が中家作品を批判した「引き受けられ切れていない」という言である。

 音だけの花火を聴いた ぎんいろのテレビの向こうガザがつながる *25

 中家作品は身体経験の物語histoireを捨象する。そこでは言葉はそのままに観念として、その感応的一致のみで連鎖しており、「現実の情景」を引き受けるには――そして、ガザのような政治性の高い地名を用いる時、その歴史histoireを引き受けるには――、薄-情である。ここで「情」と言う文字が「情動」における「情」とは逆のベクトルをもつことに注意されたい。前者は固有-経験-身体の「情」であり、後者は非人称的-感応の「情」である。「作家が、非人称化されつつ、そうならねばならぬところの、私なき私」*26――中家作品は固有-個人の経験する特異性を、物語性や文体、あるいは現在進行形――これは、同世代の歌人・飯田彩乃を引き合いに出して染野が比較した――を用いて、一度死したる言語において鮮やかな復活――あるいはエンバーミング――を果たすのではなく、音や形の一致を優先させて物語や特異な文体を用いないという――遺棄……ここでの「棄てる」は揚棄における「棄てる」を引き継ぐ――代償を払いながら、非人称性へ開いていく。「非人称的な身体」――それは、意味作用significationにおける一致対応ではなく、あくまで情動的なレベルの一致に存するがゆえに、つまり象徴的に定立される私から離れていく。それはジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリが『アンチ・オイディプス』において、象徴的な私-主体の定立を前提視するフロイト派精神分析に対して、自己をつねに脱臼していくスキゾフレニーを対置させた構図にも似ている。*27 ジークムント・フロイトは『無意識』において、スキゾフレニーの症例として、靴下の穴と女性器を「同一視」してしまう例――「穴は穴」というシニカルさ――「耳は耳」――を挙げている。*28

 星とわたしが同じになる夜
 えらいひとがいいました
 わたしを殺さないものは
 わたしをより強くするって *29

 頬杖をつけば冷たいてのひらにわたしはふたりいるんだろうね *30

 わたしからあふれてしまうわたくしは足の小指をぶつけたりする *31

 扉は順接の接続詞
 (中略)
 わたしたちはわたしたちと呼ばれたものを消し去る
 ドアの向こうに締め出された影が
 亡霊よりも希薄な亡骸になったことにも気づかずに
 真新しい顔を張り付けた私たちが *32

 ちいさなものにおおきなものを入れ子にして納めるための
 (中略)
 唇や瞼の膨らみに丘や山の隆起を感じ取った
 わたしはわたしをはみだしておおきなものになっていく *23と同部分

 中家作品の「わたし」はしばしばその輪郭を逸脱する、あるいは越え出ようとする。スキゾフレニー的で情動的な音や形の一致にこだわることで、自分の経験する身体そのものの輪郭を越境する。「ちいさなものにおおきなものを入れ子にする」――はみだして、その余剰を痕跡するダイナミズムの私。「器官なき身体」*33と言おうか。石川美南は、中家作品における「透過する光と反射する光」の対比へ注目する。それは、「降り注ぐ光」と「鏡」に対応し、前者は肯定的、後者は否定的なモティーフとして現れるという。鏡とは、ジャック・ラカンの「鏡像段階」を引き合いに出すまでもなく、自らの想像的な画定であり、それは「わたしをわたしからはみださせない」ような視認行為だ。

 見知らぬ顔がうすい鏡に映るから目を伏せ曇ってしまうのを待つ *34

 トンネルの鏡のような窓は消え銀杏並木にあふれるひかり *35

上記の二首目に依拠して、「反射光/透過光」の二元性を十分に展開できるかはここでは留保をつけ、改めて確認すべき点がある。それは、情動をとおした一致が、言語を意味とは異なるレベルにおいて「自明的に接続」する点における「イメージの混濁」だ。

 ばらばらになったあばらを海原にばらまけば
 渦潮
 しばらくは未来にしばられる
 一度も晴れたことのない素晴らしい闇に浮かぶ
 銀河
 そのまばらに散った青い星の上に
 荊の蔓を渡るバランスであなたは立っている
 散緒が切れるまでのあいだ *5と同部分

 かえりたくない日にしりとりくりかえすかなりあありあありかかなりあ *12と同首

 壜の中あいまいになる言葉たち いちご畑を探しに行こう *36

 中家作品が情動という壜のなかで言葉のイメージimageを混濁させていくスペクタクルは、「光」へと回収される。語の情動的混濁において「わたしはわたしをはみだして」、その光へと蕩けていくのである。しかしこれは論点先取である。私はもうひとつモティーフを斡旋しなければならない、それは中家作品に頻出する「眠り」だ。それは特に前半において顕著だ。

 冬の月ねこはまなこを細くしてオリーブオイルのまどろみのなか *37

 ぬばたまのヴィヴィアン・ダークブルームと鏡のうえで交わすおやすみ *38

 あでにうむ夢のつづきに花の名をささやく眠るあなたの耳に *39

 泡雪を眺めてばかり丸窓の猫は(ね)の字のかたちに眠る *40

 花の雨 眠るわたしのこめかみにふれているのはくちびるですか *41

 うたたねのまぶたにあわく陽はさして闇にひとすじはちみつたらす *42

 膨張してゆくユニヴェール)親知らずの愉快な散歩。寝室の闇は宇宙と繋がっているから、(後略) *43

 引用は以上にとどめる。中家作品の「眠り-夜」と、「微光」、そして「混濁」をつなぐ動線として、一冊の書物を援用しよう。モーリス・ブランショのレシ、『望みのときに』だ。当書において、登場するモティーフおよび女性の登場人物は代名詞elleのもとに融合したイメージとなり襲ってくる。ブランショは「寝室」と「光」を象徴的に用いながら、言語のイメージの空間と、またそれを分断する言葉自体やその効果を「日の光」とを晦渋な表現において対比させつつ、最終的には、言語の無化とイメージの混濁のあいだで中性的な微光において、自身の自由を見出す。

 わたしの転落をつらぬいて、この言葉は突き刺すような日のしたで開示されたのだ。*44

 名前も形姿ももたぬものに自己を結びつけ、この終わりのないさまよう類似に致命的な一瞬の深みを与えること、この類似とともに自己を閉じこめ、自己とともに類似をいっさい類似が滅び崩れるところまで押しやること、これこそ情熱が望むことだ。*45

 「日がはじまる」という考えがわたしを焼き焦がしていたが、それはすでに、かくも乏しい瞬間しかもたない永遠性にまで縮められたわたしの生をとおして、「日が暮れる」という別の考えになっていた。 *46

 夜と昼とを過ぎゆくこの不動性にわたしは結びつけられたのだと言うことができる。*47

 この微光はしばしばわたしを自由なまま放置しておくということを、おそらくわたしは認めねばならないだろう。しかし、何と言おうか、この微光はわたしのうちなる自由である。*48

 整理しよう。混濁したイメージのまどろむ「寝室」――そう、眠りは決して死ではない――が「光」に明るく照らされ、眠りが死に追いやられる、しかし夕暮れに訪れるそのあわいの微光こそが、ブランショが見出した「内なる自由」である。ブランショ得意の撞着語法がここでは控えめに用いられ、自由という開放的なイメージが「内」という輪郭のなかで炸裂している。これは、「わたしをはみだしていくわたし」の陰画とも言えよう。類似とともに自己がイメージのスペクタクルのなかで崩壊・溶解することを、ブランショはおもに代名詞で、中家作品は情動的な一致-感応においてプラグマティック、あるいはパフォーマティヴに成す。実際に「微光」が詠みこまれた一首がある。

 蛍、星、きみのふれてる太ももの仄明るさがひかりのすべて *49

 H音(あるいはハ行)の連鎖のなか――それは、あざといとさえ言われうる主張の強さだ――で、イメージが仄明るさという「ひかりのすべて」に回収されてゆく。『望みのときに』の禁欲的な姿勢とは裏腹だが、しかし同様の「微光への混濁」へと中家は辿り着いている。眠りの微光。それはリズミカルな頭韻、繰り返し、形の一致、まどろみのなかで形状がモーフィングして移行してゆくような、しかしそれでいてわたしたちがそれを「一切疑いえない」ような、自明性を湛えた、微光の中へ融けて、わたしがわたしをはみだして――中家が、そこで「わたくし」という語を選ぶのは、「ユーモア」の効果をもつ――ゆき、それはつまり「星とわたしが同じになる夜」であり、あるいは何もかもが同じになるナルシシズムの氾濫――染野が指摘していたような――だ。中家作品の「情動」と「眠りの微光」だ。 さて、しかしこの融解は上にも確認したとおりひとつの代償を背負う。それは、物語=歴史histoireの喪失だ――「これは物語ではない」*50――情動身体へ与することで、経験身体を通じた「引き受けること」が不十分になる。それでは何を引き受けるのか?無論、「物の真の死にゆき」だ。言語は自身で物に死をもたらしながら、その死を弁証法的に揚棄し、蘇らせる。しかしそこには、「真の死」が痕跡として残り――「現実」と不躾に言ってしまうのも方便だろう――特にそれの「引き受けられなさ」が、現前しやすくなる。「言葉として殺されていったものたちへの、言葉を語る者としての責任」をいかにして果たしうるのか。すべての短歌は挽歌である。中家作品がそのソリューションとして第二部において呈示するのは、「物語の導入」である。「沃野の風」「せんせい」「《etanpet》」における物語、そして人称ある主体性・固有性の導入とともに、情動的感応はやや後退し、保守的なコードのなかで責任を果たす。
 だがいっぽうで、私はこう考えざるをえない――物語の欠如した、リアリズム的な抒情に依拠しない、情動の感応における、非人称的身体のままで、言葉において殺されてゆく/いったものたちを「弔う」ことはできないだろうかと。身体の表象あるいは表象される身体なしに――染野は中家作品の身体の薄-情さを指摘していた――どう「引き受けるか」といった、もうひとつのソリューションは、提起できないのだろうか。ここからは仮説、それも具体性を欠く仮説になる。私の思う掛け金は、中家作品の「音において生成する」性質だ。名詞や物語、文体から身体をつねにふたたびに立ち上げて引き受けるのではなく、言語においてあらわれる一次的な身体性、耳という感官から逆向きに構成される情動の身体を立ち上げることで、その死へ弔う音の連なりを、そのイディオムを構成できないだろうか。私たちは音における弔いを何と呼ぶか知っている。「鎮-魂-歌」だ。微光の射す眠りの蒙昧のなかで鳴り響かせる、非人称的な身体が歌いだす鎮魂のしらべ。



*1 荒川徹2012『セザンヌの廃墟と非人間的情動』月曜社 表象06 所収 p.207
*2 同上 p.206 括弧内筆者。
*3 2016年4月17日「中家菜津子第一歌集『うずく、まる』批評会」中野サンプラザにて。司会は中島裕介、パネリストに石川美南、遠藤由季、染野太朗、藪内亮輔。本会の詳細な文字起こしは4月18日時点確認されず、本稿で引用する発言についての信用および誤謬はひとえに筆者の責任および、当日配布されたレジュメに存する。本稿は当批評会をきっかけに着想された内容であるが、正確な発言の原典を用意できない点をご寛恕願いたい。
*4 同上
*5 中家菜津子 2015『うずく、まる』書肆侃々房 pp.19-20 以下、同書は「歌集」と記す。
*6 歌集 p.7
*7 歌集 p.34
*8 歌集 p.49
*9 歌集 p.66
*10 歌集 p.121
*11 歌集 p.112
*12 歌集 p.56
*13 歌集 p.114
*14 歌集 p.111
*15 歌集 p.19
*16湯浅博雄2008『モーリス・ブランショにおける言語と虚構』思潮社 現代詩手帖特集版ブランショ2008 所収 p.273
*17 モーリス・ブランショ1949『文学と死の権利』1997重信常喜・橋口守人訳 紀伊國屋書店 『焔の文学』 所収
*18 歌集 p.68
*19 歌集 p.42
*20 歌集 p.111
*21 歌集 p.27
*22 歌集 p.97
*23 歌集 pp.108-109
*24 歌集 p.54
*25 歌集 p.60
*26 モーリス・ブランショ1959『来るべき書物』2013粟津則雄訳 筑摩書房
*27 ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ1972『アンチ・オイディプス』2006 宇野邦一訳 河出書房
*28 ジークムント・フロイト1914『無意識』2010 新宮一成訳
*29 歌集 p.26
*30 歌集 p.55
*31 歌集 p.55
*32 歌集 p.74
*33 ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ, 同
*34 歌集 p.67
*35 歌集 p.38
*36 歌集 p.8
*37 歌集 p.6
*38 歌集 p.7
*39 歌集 p.10
*40 歌集 p.10
*41 歌集 p.18
*42 歌集 p.38
*43 歌集 p.69
*44モーリス・ブランショ1951『望みのときに』1998 谷口博史訳 未來社 p.73
*45 同上p.134
*46 同上p.87
*47 同上p.134
*48 同上p.137
*49 歌集 p.56
*50 モーリス・ブランショ,同 p.65





2016/4/18 updated