downstairs museum

2015
3DCG game, a controller

 すべてプログラムで構築された、「まがいもの」だ。ヘッドマウント・ディスプレイの安価化や、身体デバイスの研究が進んで、3DCGによるヴァーチャル空間はよりわたしたちの現実に迫っている。美術の領域も例外ではなく、3DCGを作品に利用する作家も増えるなか、昨今ではサイバー空間にのみ存在する3DCGのギャラリーも登場した。いまやヴァーチャル・リアルは造形表現において、ポスト映像メディアとして存在感を増している。
 わたしたちや次の世代、ヴァーチャル・ネイティヴ世代にとって、VRは決して現実の延長や付加物ではなく、それ自体が屹立した空間だ。いまはその特性(複製性や物理法則の無視などの、デジタル性による新奇な感覚)や技術の発展途上によって「現実」というユニークな中心に対するオルタナティヴとして存在するが、やがてそれは現実を礎にしたものではない、独自の空間として屹立する――その特性をもって、「現実とは違う価値を持った非現実」として、現実と等位な存在になるのではないだろうか。現実のもつユニークネスの失墜。
 鏡に映らない身体――「複数化する空間感覚の優位」。わたしたちは、複数化する空間感覚を身体から切り離し、VRのなかを自由に飛び回る。もしくは、想定される別の身体へ憑依――模倣する。VRのなかでは意味や文脈の再現性は現実より高いかもしれない――つまり、コンセプチュアル・アートに関しては、文脈の生成を何度でも再現できるVRが、現実より強度を孕むかもしれない。VRの法則は、デジタル性がもたらした離散性だ。ミクロな離散性――バイナライゼーションは完全な複製を可能にし、それを礎にするマクロな離散性は、時空間に複層性を付加し根本的にアナーキーにした*。何度も現れる空間、加算で保障される時間。そこには「うつりゆくもの」も「去りゆくもの」もなく、そこに根ざす価値もない。連続的時間における瞬間の切断に根ざす実存(河原温)が機能しなくなり、そして、ヴァーチャルにおいては生や死すら、外部に複製された感覚として価値が暴落する。
 VRの特徴。健康なループ。「終わらないのもひとつの終わりだ。でも終わらないからどうしたというんだい?飽きたら死んで、他のところで生まれ直せばいい。どこだってループしているけれど。まあいいじゃない。ともかく飲もうぜ」その缶ビールは連続的?

* わたしは複層性を、以下のような意味で使う。複数のレイヤー(層)がたがいに癒着しないことで、いくらでもその順序を差し替え可能な――これはPhotoShopやIllustratorなどのAdobe製品から得た着想だ――実質的にアナーキーな綜合体としてあること。「負担なく差し替え可能な順序」は、そのときたまたまの順序であって、ヒエラルキーはない。
 このような複層性は離散性を根拠とするものであり、その逆に連続性は癒着性を孕む。(ジャン・リュック・ゴダールの『さらば、愛の言葉よ』(2015)は映画という離散的なマルチメディアにおける複層性を存分に発揮したソニマージュだ。)





*displayed at "Aggressive, or Troublesome Activity"