双子のステップ

古畑任三郎シリーズ『今、甦る死』『ラスト・ダンス』について




 法月綸太郎が提起したミステリの構造的なアポリア「後期クイーン的問題」は、探偵は論理的に真犯人を確定できない、というものだ。ミステリ研究者・諸岡卓真はこれを考察しながら、ならば推理による解決とは「ロジカル」なものではなく「レトリカル」な説得にすぎないことを、具体的な作品に考察した。
 本稿は、
「後期クイーン的問題」を、諸岡の著書を参照しながら「論理/記述」の緊張として図式化し、
②それにそって〈真実〉〈犯行〉〈探偵〉〈被告〉〈真犯人〉という概念を整理する。
③またこの図式をポール・ド・マンの「アイロニー」の議論に結びつける。
④さらに、テレビドラマ『古畑任三郎』シリーズからの二つのエピソードを題材にしながら、〈逮捕〉〈双子〉〈鑑識〉という概念を提示し、同じ図式のなかで整理する。
 本稿は、古畑任三郎『今、甦る死』『ラスト・ダンス』にかんする核心的な記述を含む。

後期クイーン的問題と推理の説得力

 1995年に法月綸太郎によって論じられた「後期クイーン的問題」*1は、ミステリが原理的にかかえるアポリアである。諸岡卓真『現代本格ミステリの研究』はその問題を取り上げながら、諸作品においてそのアポリアがどう解決(というか、処理)されているかを論じている*2
 「後期クイーン的問題」は、ゲーデルの不完全性定理に比されることもあるが、その妥当性についてはここでは触れず、諸岡による簡潔な説明を引く。

 たとえば、探偵がある手がかりからAという犯人を推理したとする。しかし、その手がかりがBという別の犯人が仕組んだ偽の手がかりである可能性(さらには、Bに罪を被せようとするCという犯人が仕組んだ可能性……)を、作品世界内にいる探偵は論理的に否定することができない。その世界が閉じていることを知り得ない以上、探偵は常に犯人のさらに上位にいる犯人(メタ犯人)が介入している可能性を疑わざるを得ないからである。*3


 つまり、何を推理したところで、「それが、さらに上手の存在によってすべて仕組まれていた」可能性を排除できない、ということだ。(真)犯人はメタ方向へ無限に高階化してゆく。諸岡はゆえに、探偵の推理がもつ機能とはその「真実」の突き止めではなく、あくまで世界の(非)一貫性に対する恣意的な区切りであると指摘する。

 この決定不可能状態を回避するためには、探偵は自ら取り巻く世界をどこかで区切ることが求められる。具体的にいうならば、探偵が〈これまでに集められた手がかりのみで推理する〉などといった条件のもとに謎を解いていくならば、そこには一定の解釈=推理が成立する可能性がある。しかし、もちろんそのような推理は、必ずしも〈真実〉とイコールではない。探偵がどこで世界を区切るのかは恣意性に基づいており、そのためにそこから導かれる推理も恣意的にならざるを得ないからである。*4


 ゆえにその真実性の保証は、その世界には含まれないメタレベルからなされる必要がある、と諸岡は指摘する*5が、しかしこの「メタ」とは何を指すのか。
 諸岡の同書第一章では、氷川透『人魚とミノタウロス』における、登場人物の、自らが小説の登場人物である、というメタ的な認識(直感)が取り上げられる。そうしたメタ的認識が、世界の無限の高階化を断ち切るその恣意的な「ボーダーライン」を保証させている、つまり作中人物が「ここで世界が閉じている」ことを知り得ているということだ。それは、「記述のレベルをメタレベルとして導入するという抵抗線を引くこと」による処理である。記述のレベルとはつまり、作中人物がメタ的な自覚をするという内容が、それ自体とは無関係な事件の推理と並走されるように、文字を並べて表現を駆使して書かれて一冊の本としてパッケージされているレベルということだ。そうした情報はもはや物語の事件に内在するものではなく*6、記述において読者に与えられるものなのである。
 では、諸岡のいう、真実性の保証がなされる「メタレベル」とは、「その物語より上位の語り」であるということなのだろうか。

 しかし、推理の破綻が原理的なものである以上、その上位の語りもまた「偽」だったということにならないだろうか? そのメタレベルの記述を行う語り手が、いわゆる「信頼できない語り手」だとしたら? この推理の不可能の仕組みは、作者のレベルに向けてなお後退していくことができる。もちろんもはや物語世界内での「事件」の域にとどまるともいえない。「もともと、その一連の物語のモデルとして〈作者〉に用意されていた(架空の)真実とは何なのか」という問題は、「と見せかける文にすぎず、すべては茶番で……」というエクスキューズを用意するだけで、後退し、逃げつづける*7
 結論をいえば、むしろこの「メタレベル」は、〈事件が発生した世界より上位〉という意味ではなく、〈事件を記述した物語を読んでいる読者〉を指す。

 『人魚とミノタウロス』が記述のレベルをメタレベルとして提示するとき、それは限りなく叙述トリック作品に近づいている。推理に必要なデータがすべて出揃ったことを保証する『読者へ』の頁も含めて、記述レベルの情報は、本という体裁で事件に接している読者にしか知り得ないものだからである。その意味において、この作品は後期クイーン的問題から叙述トリックへ至る〈通路〉の在処を的確に示している。*8


 重要なのは、ここでは、「後期クイーン的問題」自体が解消されるわけではない、ということである。つまり、あくまで記述=叙述のレベルでの読者への欺きに問題がシフトするのであって、そもそも「あらゆる手がかりは、より高階の存在によって覆されかねない」という陥穽自体は解決されない(それを指して後期クイーン的問題と呼ぶのだ)。あるいは、そもそも叙述のレベルでしか謎がなく、手がかりも何もかも、時には事件さえも、記述のレベルでそう勝手に読者が見出していたものでしかない、ゆえに〈解決〉も記述のレベルでその誤解を解くにすぎない、というように、後期クイーン的問題の発生しない地平に逃げ去るだけだ。
 あらゆる事件の真実は、無限に高階化する手がかりの非信憑性によって、決して到達されない。探偵の恣意的な区切りは、読者がそれを読んでいる記述のレベルでなされる*9。つまりある「階」の記述において歩みを止めることが、後期クイーン的問題にたいする「落とし所」である。
 諸岡によればそれはもはやロジックではなくレトリックの領域だ。

 本格ミステリが後期クイーン的問題を抱えている以上、探偵の推理が転覆され、別の解釈が浮かびあがる余地は残されている。確かに、被害者は生田だったという〔氷川透〕『人魚とミノタリウス』の結末は説得的ではある。しかし、その説得力は決して徹底的な論理によってのみ演出されているわけではない。探偵氷川の過剰な推理や、その推理によって演出される二重のカタルシスは、ロジックとしてではなく、むしろ読者を説得するためのレトリックとしても多分に機能している。そのようなレトリカルな仕掛けがあるからこそ、作品の解決に〈解決らしさ〉が付与されるのだ。*10


 諸岡の同書第二章は、麻耶雄嵩の「銘探偵メルカトル鮎」シリーズが、そうした事件の解決は記述を行う作者の恣意でしかないことを暴露している、と指摘する。この「作者」にしても、その記述の階にいる作者でしかないのだ。その作者も傀儡であって、もしかしたら「読者へ」という頁すら、より上位の〈作者〉によって言わされている偽の手がかりかもしれない。もはやここにはフェアネスはないが──犯行にフェアネスを求めるのは美学にすぎない──しかし原理的にはあらゆる情報=手がかりはより高階の存在によって偽である可能性を排除できない。極端にいえば、ある推理小説を手にとったところから、より巨大な〈推理小説〉のなかにわたしたちはとらえられているかもしれない。わたしたちはそうした無限の懐疑主義にたいして、たとえば「私は考えているから私はいる」という循環する現前のテーゼ、つまり私の目の前に私はこう記述されているということを賭金=手がかりにして区切りをつけているのだ。

 続けて第四章では、ミステリゲーム『逆転裁判』の構造において、そのメタレベルでの保証がそもそも「倒叙」によってプレイヤー=読者が担わされていることを指摘する*11。そこでは、事件の記述より先に真実が記述されることで保証されているのだ。諸岡はさらに、『逆転裁判』はゲームであるため、選択肢システムがゲームの進行・クリアを制御することで、解決の蓋然性を担保するとも指摘する。これらもやはり「読解=プレイ」のレベルでなされる処理である。ここでも、論理の正当性自体を疑いはじめれば後期クイーン的問題はまた頭をもたげるのであり、つまり記述レベルでの解決とは、そこでの記述を〈とりあえずもう信じる〉ことにひとえに存している。

 つづけて第五章では続編『逆転裁判2』がモチーフになる。ここで蓋然性は前作とは異なり、「適切さ」「仁義」に委ねられている、と諸岡は指摘する。

 結論をいえば、第四話の最終盤では、〈真実〉の決定は謎の解明が『正しい』か『誤り』かというレベルではなく、事件の解決として『適切』か『不適切』かというレベルで行なわれているということである。謎の解明が論理的に正しいかどうかは、そこでは問われない。事件の解決を決定したとき、その解決が周りのキャラクターや事柄にどのような影響を与えるのかが焦点となる。〔…〕その後、決定権は〔殺し屋〕虎狼死家の『信頼』『仁義』に基づく判断にゆだねられ〔…〕*12


 ここでも事件に関する論理的な内容は破棄され、そこに人間的に投影される善悪や義理について、誰が納得するか、というレベルに委ねられている。そこで納得する主体はもちろん読者である。これを諸岡は「説得力」と呼ぶ。
 こうした説得力が読者の納得に存していることは、エラリイ・クイーン『シャム双生児の秘密』を扱った同書第七章にも見出される。そこでは、推理の蓋然性が、それとは直接には全く無関係な「山火事」の趨勢と並走して記述されることで「説得力」をなすのだ。

 警視やエラリイが正しい犯人を指名しているときには、山火事はさほど大きな動きを見せない。逆にいえば、彼らが間違った犯人を指名していると、山火事は容赦なく近づいてくる。そのため、山火事と殺人自毛園は、直接的には全く関係がないにもかかわらず、あたかもエラリイたちの推理の正しさを計る、ある種の指標になっているようにも深読みができてしまうのである。
 このような山火事と探偵の推理の共振に気づくと、山火事が鎮火したあとの警視の言葉〔「奇跡だ」〕は、エラリイの推理にも適用できるように思えてくる。エラリイが当てずっぽうともいえる論理によって、セーラが犯人であるという〔真実〕に到達した直後、山火事は突然の雨によって鎮火する。したがって、山火事と探偵の推理の進行がシンクロしているなら、降雨についていわれた『奇跡だ』という言葉は、隠喩的な位相において、エラリイの推理に対して述べられた言葉としても把握することができるかもしれない、〈真実〉は偶然によって『奇跡』的にもたらされざるを得ない。『シャム双生児』の結末は、そのことを何よりも雄弁に語っているのではないか。*13


 諸岡はこの「推理」と「山火事」の関係を「隠喩的な位相」と指摘するが、むしろこれは実際には映画でいうモンタージュ、すなわち「換喩」*14のはたらきではないだろうか。推理が展開されるシーンと、山火事を映したシーンが交互にインサートされるようなものだ。あるいは、そこに換喩=モンタージュがあるからこそ、わたしたちは隠喩を見出して〈しまう〉。
 モンタージュの換喩性とはつまり、要素をどう並べるか、ということに帰結する。倒叙にせよ、あるいは、映画の比喩をもちいれば、崖のシーンに至り、容疑者は涙を流し、感傷的なBGMとともに、「完」の文字が表示される演出にせよ。このとき後期クイーン的問題を〈鎮めて〉いるのは、容疑者の自白ではない。そうした一連のモンタージュが、これ以上の展開はこの物語にはない、ということを記述のレベルでパフォーマティブに伝えるのだ。あくまで、あるシーンの次に別のシーンが続けて放映される、小説ならば並べて書かれる、ゲームならば電子的に進行が許されたりする、そうした即物的なレベルこそがこの「記述のレベル」である。

 さてここで一旦整理しよう。
・犯行の〈真実〉は無限に高階化・後退しうる
・推理とはそうした高階化を追っていく記述である
・ゆえに推理は最終的な〈真実〉にたどりつくことはなく、記述・モンタージュのレベルで説得力をもつに限る



ド・マン『アイロニーの概念』

 さて、後期クイーン的問題は、ポール・ド・マン『アイロニーの概念』*15で展開される議論のアレゴリーのようにさえ見える。
 ポール・ド・マンはフリードリヒ・シュレーゲル『ルツィンデ』のスキャンダラスな構成に関して、言語の本来的な特性「パラバシス」「アイロニー」について説明する。ド・マンによれば、言語とは、つねに、今そこで読まれていることとはまるきり違うことを指し示している可能性がある。『ルツィンデ』は、その大部分の哲学的記述が、そのあいまに挿入された破廉恥な記述の存在により、まるまる覆されてしまうということを上演しているのだ。真面目な文章も、はしたない内容を指し示している可能性につねにさらされている。そうした効果をド・マンは、シュレーゲルの語を引いて「パラバシス」と呼ぶ*16
 さらには、そうした効果がテクストのあらゆる場所に虎視眈々と潜んでいること、パラバシスは一度スキャンダラスに出現したからといってお終いではなく、永遠に見出すことができることこそ、言語本来の特性である。それをド・マンは言語の「アイロニー」とみなす。

 〔…〕アイロニーとはたんに中断させるものではない。アイロニーとは〔…〕『永遠のパラバシス』、たんにある一時点ではなく、あらゆる時点においてなされるパラバシスなのだ、と彼〔フリードリヒ・シュレーゲル〕は言うのです。それはまた彼が文学を定義するしかたでもあります。すなわち、アイロニーはどの部分にも存在するのであって、あらゆる時点で物語りは中断されうるのだ、というわけです。〔…〕パラバシスとはあらゆる時点で生起しうるものなのだ、と想像してみる必要があるでしょう。*17


 さてここで、パラバシスとは、「任意の手がかりはつねに覆される」という、後期クイーン的問題の重要な主張と重なることが見てとれるだろう。そうしたことが推理のあらゆる段階において起こりうるし、それは決して尽きることもない。ゆえに、世界・事件の一貫性はけっして保持できない*18。それがド・マンのいう「アイロニー」であり、推理における無限の高階化だ。星野太『崇高の修辞学』のド・マンに関する説明は、まるで推理にかんする記述のようにさえ読める。

 〔…〕もちろん、ある言葉がアイロニーであるかどうかの『しるし』は、その状況や文脈のなかに与えられているのが常である。だが、たとえそうした『しるし』をもとにアイロニーを発見することが可能であるとしても、それが本当にアイロニーであることを断言するすべはわれわれには与えられていない。アイロニーには、潜在的に無限のプロセスが内包されている。それゆえアイロニーが停止するポイントを決定できるのはアイロニーそのものではなく、アイロニーを理解したいというわれわれの欲望なのである。*19


 「理解したいというわれわれの欲望」という句に注目しよう。ド・マンの議論では作者に関する言及はない。つまりアイロニーの眼目は、「作者が何を意図していたか」ではなく、読者が「どう読むか=読みたいか」に存しているのだ。星野の記述をまた引く。

 〔…〕そして、フリードリヒ・シュレーゲルが「永遠のパラバシス」と定義したこのアイロニーこそ、テクストをいついかなるときにも中断する「危険なもの」にほかならない。それは、われわれがテクストを「理解したい」と思うときには、ほぼ完全に忘却されている。しかし、われわれがひとたびテクストという「機械」に意識を向けるとき、それはテクストをまったく唐突に解体するものとして現れてくるのだ。*20


 逆にいえば、わたしたちがテクストを理解したいと思い始めるからこそ、思っているかぎりで、テクストの意味は安定する。読者が「なるほど」と思い始める、思っているかぎりで、後期クイーン的な陥穽は鳴りを潜め、推理は事件を解決しているように見える。それが「説得力」である。
 アイロニーに晒されたテクストをド・マンは「機械」に例えながら、そこでの意味の恣意的決定は、「シニフィアンの戯れの次元」「語呂合わせ」に左右されると喝破する*21。それはつまり、似たような綴りの語が、同じ紙面や本のなかで並べられている、という、モンタージュ=換喩の原理、いわば「そう叙述することによるトリック」でしかないのだ。前節で、推理の説得力は即物的なモンタージュに存すると記した。星野はド・マンのカント論『カントにおける現象性と物質性』を参照しながら、テクストという機械の作動は「言語の散文的な物質性」によるものだと説明する*22。ド・マンによればカントの崇高に関する記述は破綻しており、それでもなお説得力を維持しているのは、「驚嘆Verwunderung」/平静Bewunderung」という語の類似や、「適合Angemessenheit/不適合Unangemessenheit」という語同士のめまぐるしい入れ替わりといった「言いかた」自体によるものではないか、と批判している。

 つまり、言語の意味は、その非物質的な記号性が指し示すところの論理的内容(これがアイロニーにつねにさらされている)と、物質性すなわち「どう書かれるか」という記述のレベルがどう経験されるかという内容(これの物質的なおさまりのよさがアイロニーをさしずめ鎮める)との拮抗によって「読まれる」瞬間に立ち上がってしまうものであり、後期クイーン的問題とは、そうした抽象的な構図が、ある論理性と経験性を併せ持った具体的な事件のかたちにアレゴリーと化したものとも思われる。


探偵/被告/真犯人

 ミステリの枠組みに戻ろう。先程の整理を再掲する。

・犯行の〈真実〉は無限に高階化・後退しうる
・推理とはそうした高階化を追っていく記述である
・ゆえに推理は最終的な〈真実〉にたどりつくことはなく、記述・モンタージュのレベルで説得力をもつに限る

 こうした構造において、「犯人」「探偵」の指すところは一体何なのか。前々節、私が引用文を除いて「犯人」という語を用いたのは以下の一文のみだ。

 (真)犯人はメタ方向へ無限に高階化してゆく。


 さてここで、「犯人criminal」「被告accused」との違いを強調したい。被告とは文字通り「告げらるるところのもの」だ。訳語に選んだaccusedというのも、「告発するaccuse」という語の受動態であり、すなわち被告とは受動的な存在者性である。たいしてここで「犯人」の訳語に選んだcriminalは「罪あるもの」であり、能動的な存在者性である。
 この違いをそのまま、「真犯人」すなわち「すべての任意の手がかりの欺きが、彼のなすところに収斂できてしまう超然的に上位の犯罪者」と、「傀儡」すなわち「その真犯人の手によって、ある程度の論理階梯しか昇ることの出来ない〈名探偵の説得力ある推理〉に指名される者」とに分けよう。小説において前者は存在論的に〈作家〉その人と一致するのは明白である。
 整理しよう。

・犯人とは、無限に高階化しうる真実のその階梯を駆け上がり続けるというしかたの存在
・被告とは、その階梯の恣意的などこかの階数で、探偵の恣意的な推理によって告発され(かつ、その説得力によって物語記述の幕は閉じ)たという存在


 である。よって探偵とは、階梯を昇り逃げ去る「犯人」の影を追って階数をあがるごとに推理を修正し、説得力を高めながら、その説得力が頂上*23に達するところで、その影、「容疑者」*24のひとりを名指して、「被告」に仕立て上げる。読者はその推理の記述の物質的な説得力によって納得し、被告を犯人とみなして読解を終える。たとえ被告が、「俺は真犯人に操られていたのだ」と真実(つねに真実でありうる)を述べたとしても、彼がパトカーに押し込まれ、画面奥へ走り去ってゆき、カメラのピントから外れるのを見れば、鑑賞者はそれで納得する。

・探偵とは、その推理の記述の物質的な説得力によって、容疑者を告発して被告とし、つねに潜在的に(真)犯人を逃しつづける存在

 ところでこの「探偵」とは、必ずしもキャラクターとしての名探偵に一致するわけではなく、機能・装置自体をいう。その点では、ワトスン役も(非常に階梯の低い位置にいる)探偵であり、あるいは自らの犯行を自白する容疑者も探偵である*25。探偵はつねに欺かれているのであり、自白者の自白も「真犯人に言わされている」可能性が拭いきれない。逆に「犯人」とは言語のアイロニーそのもの、ゆえに推理小説を書き続けることを可能にする条件であり、つねにそこに〈いる=いない〉存在である。


『今、甦る死』

 三谷幸喜脚本・田村正和主演で1994年から放送が始まった『古畑任三郎』シリーズの幕引きとして、2006年1月頭に放送された『古畑任三郎ファイナル』三部作の一作目『今、甦る死』は、この「真犯人」の問題を取り扱っている。
 以下あらすじを示す。

 冒頭、地方の村で細々と経営を続ける「堀部パン」の社長が熊に襲われ死亡する。その葬儀の後、社長の甥兄弟であった大吉と音弥(演:藤原竜也)とは、同地の開発に関する意見で対立する。音弥は母屋二階で大吉を後頭部から殴殺し、〈ある仕掛け〉を施してその場を去る(同シリーズの慣例として、倒叙シーンでは殺人者は明かされるもトリックは明かされない)。 母屋一階で、音弥と、音弥の中学校時代の恩師天馬(演・石坂浩二)、死亡した社長の夫人たまよとが話している。縄文土器についての天馬の話に熱が入ったころ、二階から物音がして、三人が様子を見に行くと、大きな鎧の下敷きになった大吉の死体が見つかる。
 古畑任三郎(演:田村正和)、またその部下今泉と西園寺が到着し捜査が始まる。現場の状況に不信感をもった古畑は大吉の死を殺人と考える。大吉が発見された二階は、音弥・天馬・たまよが話していた一階を通らねばならず、また窓外の雪に足跡もなかったことから密室といえる。以降、古畑は音弥を挑発しながら捜査を続け、また音弥も応酬する。幾度となく古畑の推理は覆されるも、最終的に、角砂糖を用いたタイマーを利用していたと断定する。角砂糖の上に乗せたつっかえ棒で鎧を支えておき、わずかに傾いた床に水を零しておくことで、その水が角砂糖にたどり着いて溶かすまでの時間をタイマーとして使えるのだ。今泉がその水を舐めて甘いことを確認していたことが状況証拠となる。かくして当時一階で話していた音弥・天馬・たまよも容疑者としてあげられることになる。だが古畑はあくまで音弥が殺したと予想している。
 天馬は、一連の古畑の、音弥を犯人と前提したかのような捜査に憤りを感じており、音弥が次の被害者にでもなれば古畑も目を覚ますだろう、と嘯く。それを聞いた音弥は森の中で散弾銃で自らを撃ち死亡する。被疑者死亡で意気消沈する古畑のもとに、音弥のノートが発見されたと告げられる。それは音弥が中学校の頃に綿密に調べ上げた「完全犯罪の研究」であり、一連のトリックはそこにすでに記されていた。


 ここまでで終われば、古畑の推理の説得力は、トリックの状況だけでなく、音弥自身の(警察から見ればおそらく罪を悔いての)自殺によっても証明できる。そして視聴者からすれば、音弥は、死んでまで逮捕を逃れようとしたか、あるいは未遂の殺人を装うつもりが事故死したか、いずれかだと思われる。いずれにせよ、視聴者にとっても音弥の死は、物語構成上レトリカルな「解決=納得」として理解される。推理小説における「容疑者自殺」はこのようなレトリックの性質をもつが、それについては次節で扱う。
 ところで、『今、甦る死』の肝心部はここからである。

 音弥のノートには、被害者を予想ために散弾銃で自らを撃つも「死なない程度の怪我で済ませる」方法が書いてあった。だが音弥は実際には死亡しているのだ。
 古畑は、音弥が天馬に操られたのちに死亡した、と推理する。つまり、そもそも兄との対立は天馬がそそのかしたのであり、それから、不満の溜まった音弥にさりげなく件のノートを渡して殺害計画を想像させる。その後、母屋に鎧を運び込むことで、音弥の性格からしてまさにそれは「運命」のように感じられ、音弥は殺害計画を実行に移した。


 これは後期クイーン的問題でも取り上げられる〈操り〉である*26。犯行は、殺人者を操るより上位の〈犯人〉が構想したものだ、ということだ。

 そして古畑は、音弥の事故死こそ天馬が唯一直接関わった死だと認識する。天馬は、音弥のノートに記されていた「自らを撃っても死なない火薬の量」を書き換えた。音弥はその書き換えに気づくことなく、本来より多量の火薬を詰め、事故死した。中学生当時の音弥が正しい数値を記録していたことは録音(この物的証拠この〈タイミング〉で突如登場する)から証明できる。

 さて、古畑(あるいは推理のモンタージュ)はこのように、天馬が〈操っていた〉という推理に説得力をもたせる。だが〈操り〉はもはや証拠の読み替えすら必要なく、ただ「マインドコントロールされていた」と宣言するだけでも可能なトリックであり、誰でも(より真の)犯人に仕立て上げられる。〈操り〉には物的証拠もない。ゆえに天馬が音弥を操ったということは、天馬自身が開き直るように「証明できない」(論理の限界)し、「何の罪に問われる」のかも定かではない(刑事ものの束縛)。この「逮捕」の問題も次節で検討する。

 古畑の推理が正しかったとしても、刑事事件としてはあくまで音弥が殺人犯であり、天馬を罪に問うことはできない。しかし古畑はここで、天馬が十五年前に殺人を犯していたことを論及する。そもそも彼が大吉・音弥を殺害したのは、裏山の開発を阻止するためだった。音弥は開発に反対していたが、周囲に流されやすい性格だったのだ。だが天馬の動機は自然を守りたいという義侠心からではなく、そこに「天馬が手を下した死体と、その証拠」が眠っているからである。それは十五年前に失踪した大吉・音弥の父の死体であり、その胸には、天馬が発見したとされる縄文時代の槍の破片が残っている、と古畑は推理する(この槍は劇中、〈伏線〉として登場している)。ちょうどいいタイミングで、窓外を、裏山へ向かうパトカー・重機が通り過ぎる。古畑はそれを見て「いい時間だ……」とつぶやき、天馬は観念したかのように認める。

 以上までがあらすじである。

 さてここで注目したいのは、こうした一連の推理は証拠の登場する〈タイミング〉によって左右されているということだ。当時の録音も(あるいは任意の証拠は)、さらに天馬を操っていた第三者が仕組んだものだとさえ言えてしまう。あらゆる証拠は決定的証拠にならず、一連のモンタージュのなかでよい〈タイミング〉で登場し、推理の展開に説得力を備給する物(質)的証拠にしかならない。この推理を終結させる〈タイミング〉は、古畑の推理(ほぼ推測にすぎない)と同時=「いい時間」に重機が通り過ぎ、もはや緊張が解けはじめたことを示すBGMが流れだす、というところだ。その時点では死体は発見されていないし、それが天馬の殺害したものだとも示されていない。そして、天馬がそれを認めたところで、大吉・音弥殺害の動機とは全く無関係である、とさえ本人の口から言えてしまう。すべては、さらに何者かが、天馬の過去の殺人をだしにして、天馬に音弥をマインドコントロールさせたという二重の〈操り〉だった、という可能性は棄てきれない。だから天馬の自白も嘘かもしれない。天馬は、十五年前の死体が上がると仄めかされることで、本来認めなくてもよい一連の操りを〈同じタイミングで〉認めているにすぎない。
 だがそれが、モンタージュが与する推理の「説得力」というものだ。推理が原理的に論理的に閉じたものでないならば、そのつぎはぎの仕方がなめらかな経緯をもっているかのように、よい〈タイミング〉で、状況証拠、推理の展開、逮捕、容疑者観念、自白などをつなげ合わせる。かくして推理の説得力は極限まで高まり、容疑者はこの「いい時間」*27に逮捕される。


逮捕・自殺という「いい時間」

 この「いい時間」に関して、推理小説・ドラマでは「逮捕」や「容疑者自殺」がそのモチーフとして利用される*28。 論理的につねに「より真の犯人」が高階に控えているという可能性は拭いきれないならば、「それでも彼がおそらく真犯人だったのだろう」と物語を閉じるのは、論理の外にあるモンタージュのレベル、推理の果てに犯人は逮捕を受け入れる(かつ、自分は操られていたと主張しない)か、捕まるくらいならばと自殺を遂げる、といった二択におおよそ分けられる。もちろんあくまで「解決」はレトリカルなものであり、そうした幕が典型的だというにすぎない。『古畑任三郎』シリーズには、犯行を認めながらも法の網の目をかいくぐって海外に逃亡する容疑者もいる。
 「逮捕arrest」「自殺suiside」はあくまで、推理のそれ以上の穿孔にたいして、強い摩擦抵抗をもたらし、物語を「そこで停止a-rest」させ、「自ら切るsui-cide」ものだ。すべての容疑者は「被告」として、ある時点で逮捕されるないし死ぬ(殺される)しかないのであり、「真犯人」は無限に逃げおおせる。

 〈操り〉の有無は、論理的な〈高階化〉としては違いはないが、刑事ものでは「逮捕できる/できない」、つまり物語を締められるかどうかという重要な点にかかわっている。逮捕あるいは容疑者自殺なしでは十分な説得力=摩擦抵抗を推理に備給するのは難儀になる。すべての探偵は、そのパッケージされた書物や映画上映の「いい時間」が来るまで推理を披露するにすぎないのだ。


『ラスト・ダンス』

 『ラスト・ダンス』は、前述の『今、甦る死』の二日後に放送された。『古畑任三郎ファイナル』三部作の三作目であり、シリーズ全体の掉尾を飾る作品である。このエピソードも『今、甦る死』同様に「真犯人」の問題を〈双子〉というモチーフから扱っている。それは〈操り〉と同等、いやそれ以上に、真犯人の〈真犯人性〉を極端に表現するものと言える。
 以下あらすじを示す。

 連続ドラマ『鬼警部 ブルガリ三四郎』などを手がける脚本家加賀美京子は、社交的な大野かえで(演:松嶋菜々子)と内向的な大野もみじ(演:同)という双子がそれぞれプロットと執筆を手がける共同ペンネームである。古畑はドラマの監修で携わっており、それをきっかけに〈かえで〉と親しくなってゆく。翌日またかえでは古畑とカフェで会う約束をする。
 翌日、かえではカフェ前で古畑とすれ違い、もみじの仕事場へ寄ってから改めて来る、と告げて向かう。このとき、かえで・もみじは方向性の違い、そしてもみじの独立への志望から現在手がけているドラマでユニットを解消することを話し合っていた。話し合いは穏便に進むように見える。だがここで〈かえで〉は、秘書の杉浦にたばこを買いに行かせた隙に〈もみじ〉を射殺する。その後、爆竹のしかけをセットして、〈かえで〉は古畑のもとに向かう。そして持ち出した〈もみじ〉の携帯電話で自らにかけて、自らの携帯電話で出ることで、そのとき〈もみじ〉が生きていたかのように装う。姉がただならぬ様子だと告げてもみじの仕事場に戻る。予め鍵をかけておいたドアの前で、杉浦・〈かえで〉が声をかけていると、中で爆竹の仕掛けが作動する。それから部屋の中に入ると、〈もみじ〉の死体が見つかる。騒動の隙に、〈かえで〉は仕掛けを片付ける。


 この、タイマーで遅らせることで自らの犯行を自殺に見せかける手法は、『今、甦る死』での大吉殺害を事故死に見せかけたトリックと同様である(内容としてはより陳腐なものだ)。

 古畑は一連の事件を捜査しながら、音に反応する人形を手がかりに、銃声が二度あったことを推理し、タイマーの仕掛けに気づく。その後、古畑・今泉・西園寺が話しているシーンで、今泉は一連のトリックはかえでが仕掛けたものだ、と直感的に看破する。だがその推理は、かえでが一度カフェで古畑に会ってから、また〈かえで〉が戻ってくるまでの時間を鑑みると、時間的に猶予がないものだった。
 だがここで古畑はむしろ真実にたどり着く。カフェで別れたあとで戻ってきた〈かえで〉は、彼女のふりをしたもみじだったのだ。入れ替わりである。つまり犯行は、かえでがもみじを殺したのではなく、もみじがかえでを殺したのだった。もみじはそれから〈かえで〉を装いつづけていた。もみじの仕事場の正面入口には静脈認証があり、かえででは通り抜けられず、遠回りする必要がある。だがもみじ本人ならば通り抜けられるため、トリックを完遂するだけの時間の猶予はある。
 古畑は、もみじの部屋にあったが巧妙に隠された化粧品や、鏡代わりの水槽から、もみじがかえでの社交性を羨み、かえでを〈もみじ〉として葬り、〈かえで〉にすり替わろうとした犯行だと見抜いた。


 以上までがあらすじである。
 さて、この構成はおおまかに三つの仕掛けの関係に区切られる。

 まずは、①タイマーで殺害を自殺に見せかけるアリバイトリックだ。このトリック自体は、かえでがもみじを殺そうと、その逆だろうといずれでも可能であり、それゆえ視聴者(と、古畑たち)はかえでが殺害したと思い込む。そう思い込む=推理・納得するのもモンタージュの効果である。殺害シーンの前に、もみじが独立を目論んでいること、それをかえでは内心快く思っているわけではないことを示すことで、かえでによる殺害だと思わせるのである。しかし実際はもみじのほうに殺害の動機があった。以上からも、ミステリの高階化において動機=心的証拠は、物的証拠・状況証拠以上に、論理に負担なく「いくらでも読み替える」ことが可能である。もっとも端的には「動機なし」である。そもそも動機というのも、犯行の主体を個人の心に収斂させて納得させるにすぎない。だが『今、甦る死』の読解からも明らかなように、動機からしてその当人に芽生えたものかは決して断定できないのである。
 二つ目の仕掛けは、②入れ替わりである。〈双子〉とはつねに入れ替わり可能な存在性を指す。じっさい、静脈認証を除く証拠はすべて状況証拠にすぎず、〈かえでを装っていたもみじ〉にはその背後につねに、〈かえでを装っていたもみじを装っていたかえで〉という〈双子〉が控えている。かえでは何らかの動機で、もみじが自分を装ってもみじ自身を葬り、そして古畑に看破されるという計画を立てていた、という犯行になる。動機は何でもよい。「自らを、姉の嫉妬に殺された悲劇の作家として伝説化する」というものでもよいし、「単に精神異常だった」でもよい。動機とは記述レベルの問題であり、ゆえに動機の開闢によって、記述は自由に論理の説得力を調整することができる、とさえ言える。
 さて三つ目の仕掛けは③静脈認証である。①のトリックはかえで・もみじどちらを殺人者とした場合でも可能であるはずだが、静脈認証の存在によってその対称性は崩れる。だがそれも「殺人者はもみじでなければならない」という程度の話であり、強力な説得力をもつが、原理的に高階化をせき止めたわけではない。なぜなら、「そもそもすべてはかえでがもみじをマインドコントロールして遂行させた七面倒な自殺なのだ。動機は云々」と高階化できるからだ。

 『ラスト・ダンス』では、以上①②③三つの仕掛けが織りなす「説得力」によって、もみじが〈被告〉になる。だが、私がここで注目したいのは②双子である。今一度記せば、〈双子〉とはつねに入れ替わり可能な存在性を指す。これは後期クイーン的問題、すなわち〈真犯人性〉の骨子とさえいえる性質である。それは究極的には、「あらゆる被告は、その双子の真犯人によって操られ身代わりにされた存在である」という高階化の可能性をミステリは否定できない、ということだ。アイデンティティがそもそも異なる、というのは究極的な「証拠の転覆」である。被告の背後にはかならず、その双子の真犯人がいる。あるいはこう言ってもよい。「真犯人は真犯人の双子である。The real criminal is his twin.」
 もちろんここでの〈双子〉性とはもはや実際の双子にかぎらない、存在論的なありかたを指す。あらゆる物的証拠も双子である。その証拠はすべてすり替えられたものにすぎない。あらゆる被害者は双子である。その死体はすべてすり替えられたものにすぎない*29。あらゆる被告は双子である。任意の証拠のアイデンティティはいくらでもすり替えられてしまう、というのが後期クイーン的問題の本体である。

 本作においてこのかえで=もみじにおける〈双子〉性を調停するのは、静脈認証という〈鑑識=同定identification〉という非双子性である*30。〈双子twin〉は〈鑑識identification〉をかいくぐる存在だ、と整理できる。
 『ラスト・ダンス』で、静脈という非双子的な要素によってしか双子が同定できないということは、逆説的に、容疑者・被害者が〈双子〉であるかぎり論理的な確定ができないことを示している。
 では、静脈認証によって後期クイーン的問題=双子性が解決されたということなのか。そうではない。静脈認証がまた(操りでも、機械的な仕掛けでも、その謂は何でもよいが)覆されるとき、静脈認証もまた〈双子〉となるのである。
 整理すれば、論理の階梯をある段数でとどめる推理の説得力とは、こうした〈双子〉の入れ替わりに摩擦をあたえる〈非双子性〉(の記述レベルでの演出)だといえる*31

 本作ではかえでに惹かれてゆく古畑が描かれる。犯人に恋する探偵とはミステリのクリシェとさえいえるが、さて、〈探偵〉が、或る〈被告accused〉へのレトリカルな納得=〈告発accuse〉を司る以上、恋心はその告発を躊躇させるというジレンマを発生させる。
 かえでが嫌っていた呼び方「先生」を〈かえで〉に向かって続けることで彼女がもみじであるかどうかを訝しんだり、今泉や西園寺が忖度するように、古畑が〈かえで〉を犯人であることを確信するときに躊躇いをみせるのは、まさにここでの〈探偵〉の機能、つねに入れ替わり続けうる〈双子〉を、いずれか〈被告〉に「納得・収斂させる」という権力を表している。
 古畑が、静脈認証のトリックから「彼女はクロだ」と苦々しく宣言するシーンがある。それは、推理の納得によって権力と恋心とのジレンマにけじめをつけるのではない。逆だ。モンタージュとしては、権力と恋心とのジレンマにけじめをつけたことが、ここで古畑の推理の説得力を極まらせるのだ


かえでともみじのステップ

 『ラスト・ダンス』の入れ替わりトリックは、かえでにもみじがすり替わるというものだった。さて、加賀美京子とは、かえで・もみじがそれぞれプロットと執筆を手がける共同ペンネームだった。つまり、本稿の議論を象徴させれば、かえでが構成=論理、もみじが物語=記述にあたる
 「論理」に「記述」がすり替わり、葬り去る。これは本稿が整理した、「結局わたしたちが最終的に理解するのは、論理の階梯性ではなく、記述レベルでの推理の説得力である」というミステリの構造のアレゴリーである。

 古畑が〈かえで〉がもみじであったと確信する証拠はもうひとつある。

 終盤、古畑は〈かえで〉をダンスホールに誘う。かえでは、踊り慣れない古畑に教えるほどダンスが得意だった。古畑は、かえでに言われてからダンスを練習した、と言って、〈かえで〉にともに踊るよう促す。しかし、今そこにいる〈かえで〉はうまく踊れない。なぜなら彼女はもみじなのだから。もみじも観念し、古畑は「貴方はもみじさんですね」と宣告する。だが古畑はかまをかけていたのであり、実は古畑も結局踊りは不得手なままだったのだ。

 〈探偵〉の推理と、それに告発される〈被告〉とは、その〈記述〉によって、無限につづく論理の階梯の、どこか或るステップで「踏み留まるもの」だ。古畑ももみじも、ともに「ステップが踏めない」もの同士。ここで物語は幕を閉じる。







*1 法月, 1995,「初期クイーン論」青土社「現代思想」1995年2月号所収, 2007,『法月綸太郎ミステリー塾海外編:複雑な殺人芸術』講談社,所収

*2 諸岡卓真,2010,『現代本格ミステリの研究 :「後期クイーン的問題」をめぐって』北海道大学出版会

*3 諸岡, 同, p.16

*4 諸岡, 同, p.17

*5 「このことは、探偵が推理のみによって〈真実〉に到達できないことを示している一方で、〈真実〉に到達するための条件を示しているともいえる。探偵の推理が恣意的なものであったとしても、それが〈真実〉となる可能性がなくなるわけではない。探偵の推理は、何かの表紙に〈真実〉と一致するかもしれず、その意味において、探偵が〈真実〉に到達する可能性は残されている。言い換えれば、探偵は、何らかの方法によって自らの推理を〈真実〉に一致させることができれば、〈真実〉にたどり着くことができるのである。/しかし、そのような形で探偵が〈真実〉を言い当てたとしても、それは決して論理を突き詰めた結果ではない。探偵は推理によって世界から解釈を引き出すことはできるが、その解釈が〈真実〉と一致しているかどうかは、自らの推理だけでは判断することができない。つまり、探偵は『自らの正しさを自らは証明することができない』のであり、それを証明するには、メタレベルからの保証が必要になる」(諸岡, 同, pp.17-18)

*6 「そのような方法は、作品世界内の探偵が推理のみでは〈真実〉にたどり着けないことを前提としながら、本格ミステリ作品を成立させるためのひとつのバリエーションだからである」(諸岡, 同, p.36)

*7 この構造は、「究極的な作者」の位相を決定できない原理として、佐々木敦によって「作者0」として定式化されている。佐々木, 2014,『あなたは今、この文章を読んでいる。:パラフィクションの誕生』慶応大学出版会

*8 諸岡, 同, p.37

*9 高階性=メタと、記述のレベル(諸岡はこれをメタレベルと呼ぶ)との対比は、佐々木,同が「メタフィクション/パラフィクション」と対比する物語構造に似ている。静的な自己言及論理をもつだけのメタフィクションにたいして、そうした自己言及の運動が「読者が読む」過程において展開し、その展開自体が作品の骨子になっているものを佐々木は「パラフィクション」と名付ける。

*10 諸岡, 同, p.40

*11 「倒叙ミステリとは、一般的な本格ミステリとは逆に、本来ならば最後に明かされるべき真相のすべて、あるいは一部をストーリーの前半で明かしてしまい、後半ではその計画が成功するか失敗するかを犯人の側や探偵の側から描くものをいう。テレビドラマの『刑事コロンボ』や『警部補 古畑任三郎』を想起するとわかりやすいだろう」(諸岡, 同, p.126)……なお本稿ではこの後古畑任三郎からエピソードを二つとりあげるが、これらは通常通りの倒叙演出が、全体の構成の肝になっている。つまり、冒頭の倒叙で明かされる犯人が真犯人ではない・あるいは後述する「双子」の仕掛けが利用されているのだ。

*12 諸岡, 同, p.165

*13 諸岡, 同, p.203

*14 「映画ではどのモンタージュ、すなわちシニフィアンのどの隣接も換喩である、と。また映画はモンタージュなのですから、映画は換喩的な芸術である(少なくとも現在のところは)、と。」(ロラン・バルト, 1963=1980, 蓮實重彦・杉本紀子訳「映画について:「カイエ・デュ・シネマ」誌によるインタビュー」『映像の修辞学』筑摩書房 所収 p.95)

*15 ポール・ド・マン, 1996=2013,上野成利訳,「アイロニーの概念」『美学イデオロギー』平凡社 所収

*16 「パラバシスとはレトリックの使用域を転換させることによって言説を中断させることです。〔…〕」(ド・マン,同, p.418)

*17 ド・マン,同, p.420

*18 「譬喩のアレゴリーには、それ自体の物語りとしての首尾一貫性、それ自体の体系性がそなわっていますが、しかしアイロニーが中断させ破綻させているのは、まさにこの首尾一貫性、体系性にほかならない、というわけです。そうだとすれば、いかなるアイロニーの理論を立てたとしても、それはいかなる物語りの理論をも解除するものになる、しかも必然的に解除するものになる、と言うことができるでしょう。」(ド・マン,同, p.421)……ここで「物語り」が、推理記述──推理とは探偵役ないし探偵役をいっとき引き受ける容疑者による物語りである──に対応する。

*19 星野太,2017,『崇高の修辞学』月曜社, p.255

*20 星野,同, p.259

*21 「実際これ〔シュレーゲルが自身の論証で利用する言葉遣い〕はシニフィアンの戯れです。論考『難解ということについて』は語呂合わせで満ち溢れています。〔…〕ここにあるのは一つの機械machine、テクスト機械です。つまり、情け容赦ない決定と完全なる恣意、彼の言うunbedingter Willlkür〔無制限の恣意〕[Lyceum Fragment 37, K.A. 2: 151 二五]がここにはあるわけです。そしてそれはシニフィアンの戯れの次元で言葉に宿りつつ、あらゆる物語りの筋の首尾一貫性を解除し、反省モデルと弁証法モデルを解除することになります。ご存知のように、この二つのモデルはあらゆる物語りの基礎となるものです。反省なき物語り、弁証法なき物語りなど存在しませんが、しかしアイロニーが破綻させているのは(シュレーゲルによれば)。まさにこの弁証法と反省性なのであり、譬喩なのです。反省モデルと弁証法モデルとはとりもなおさず譬喩論的な体系、つまりフィヒテの体系のことなのであって、これこそアイロニーが解除するものにほかなりません。」(ド・マン,同, p.426)……ここで「反省」「弁証法」が、犯行の真実の高階化の原理に対応する。

*22 「そして、ド・マンによるカント論を承けて言えば、そのような『機械』の作動は、以上で述べられたような言語の散文的な物質性に起因するものにほかならない。」(星野,同, p.251)

*23 「頂上に出口なしLe sommet est sans issue」(ミシェル・ドゥギー『大-言』)……星野,同はドゥギーの詩・崇高論に触れながら、ドゥギーが偽ロンギノスを参照しつつ考察する「崇高」が、「放物線=高みへの投擲hyperbole」状のイメージであることを論じる。それは修辞における「誇張hyperbole」(!)と同じで、ある絶頂のタイミングをすぎると、その説得力を失っていってしまうものだ。

*24 容疑者は英語でsuspectである。これを宙吊りsuspenseと語感のうえで紐付けるのは、まさにド・マンが「言語の散文的な物質性」と糾したところの記述であるが、じっさい容疑者とは疑われているなかの(これも受動的な)存在であり、いまだ「告発さaccuse」れていない宙吊りの存在である。

*25 容疑者が探偵役を担うケースは主に「自白」であり、諸岡は〈操る犯人〉(彼もまた被告となる容疑者にすぎないのだが)がそうした記述をもたらしやすいことを指摘している。……「そのような〔操りの含まれる〕本格ミステリ作品においては、探偵は〈真実〉を提示する者という特権的な立場から引きずり下ろされるものの、その裏側で犯人が特権的な立場を手に入れる。すると、探偵の推理の失敗と入れ替わるようにして、犯人側からの論理の提示が行われることになり、探偵の推理とは別のレベルで『謎―論理的解明』の軸が維持されるようになっている。言い換えれば、〈操り〉は探偵を相対化するものの、本格ミステリ形式は相対化しない。結局のところ、〈操り〉は探偵が担っていた特権性を、犯人に移譲するにすぎないのである。」(諸岡, 同, p.172)……本論は、「真実―真犯人/推理」のいたちごっこを後期クイーン的問題(ひいてはド・マンのアレゴリー)とみなし、その記述のなかで経験的に働き、作品として結末を完遂する装置が「探偵/容疑者―被告」であると整理しており、この二分法が諸岡のこの記述にもあらわれている。

*26 「確かに、〈操り〉は後期クイーン的問題を引き起こす最も典型的な例であり、法月も『初期クイーン論』で〈操り〉を用いたエラリイ・クイーン『ギリシャ棺の秘密』(一九三二)の分析に多くの筆を割いていた。また、笠井潔も後期クイーン的問題を解説する際に、やはり〈操り〉を用いたクイーン『十日間の不思議』(一九四八)を取り上げていた。」(諸岡, 同, p.171)

*27 「多くのものはあまりに遅く死ぬ。ある者たちはあまりに早く死ぬ。『死ぬべき時に死ね』、という教えはまだ耳慣れまい。」(フリードリヒ・ニーチェ, 1885=2015, 佐々木中訳,『ツァラトゥストラかく語りき』河出書房新社, p.121)

*28 諸岡は西澤保彦『神のロジック』に関して、操られた者が操る者を殺してしまい事件の幕引きとなる例を挙げている。それを諸岡は「ウロボロス的」と形容し、「肥大化によって逆説的に崩壊する」と説明するが、この「逆説的」こそ、まさにアイロニーを調停させる物質的なエクスキューズである。むしろ西沢が提示した結末は〈操り〉の論理のなかに〈容疑者自殺〉をレトリカルに封入した例として整理できる。……「このような〔操られていた者が操る者を殺してしまったという〕事態は、犯人と被害者の関係を流動化させる。いったい、デボラを殺した犯人は誰なのだろうか。実質的に殺人を犯したのはステラだが、そのステラを操っていたのはデボラだった。一見するとデボラが上位に立っているようだが、彼女は最終的に、ステラによって殺害され被害者の仲間入りをしてしまう。この作品においては、犯人と被害者はウロボロス的に繋がり、その発端を定めることはできない。/端的にいえば、西澤保彦『神のロジック』は、肥大化によって逆説的に崩壊する〈操り〉を描いた作品だ。そこでは、探偵が〈操り〉を崩すものでもなく、犯人が〈操り〉を完遂するのでもない。犯人に強力な権力が与えられているにもかかわらず、探偵―犯人という特権化された主体同士の対決には決してならない。この作品は、操る者の強化と相対化が同時に起こる可能性を示唆しているのである。」(諸岡, 同, p.184)

*29 被害者のすり替えは「顔のない死体」としてミステリではクリシェ化されている。それは登場人物のアイデンティティを溶解するものとして、〈双子〉性の一種だと言える。……「しかし、そのような高度なロジックを演出する謎である〈顔のない死体〉には、すでに大きな問題点が指摘されていた。後期クイーン的問題を典型的な形で導き出してしまうのである。」(諸岡, 同, p.27)……さらに諸岡が引用する法月の記述を引こう。「この類型の中で、最も典型的かつ重要なケースは、いわゆる『顔のない死体』トリックと、そのさまざまな変形にほかならない。これはひとくちにいうと、最初に被害者だと思われていた人物が真犯人であると判明する技法で、首を切る、顔をつぶす等の偽装手段によって、死体のアイデンティティを犯人自身のそれをすり替えるところから右のように総称されるが、死体の顔に損傷がなくても、犯人と被害者が瓜二つの外見を備えているような場合には、やはりこのケースに含めていいだろう。このトリックの眼目は、死体に加えられた物理的損壊の有無ではなく、『犯人-死体』という主客の関係が、ロジカル・タイプの侵犯(レベルの混同)によって入れ替わってしまう点にあるからである。」(法月綸太郎「一九三二年の傑作群をめぐって」 法月, 同 所収)……ここでいう「顔のない死体による、犯人と被害者の入れ替わり」が、「同じ顔を持つ双子における、犯人と被害者の入れ替わり」と相似的であるのは明白だ。

*30 DNA鑑定や筆跡鑑定もこうした〈鑑識〉性の高い要素である。

*31 これを「顔」と呼び変えてもよい。〈双子〉とはそのあいだの関係について「顔をもたない」ものである。ところで、斎藤環は「顔とは固有性のコンテクストである」という旨を著書『キャラクター精神分析』(2014、筑摩書房)で簡潔に記している。「そこ〔斎藤『文脈病』〕での僕なりの結論は、『顔』とは『固有性のコンテクスト』そのものである、というものだった。つまり『顔』それ自体は、いかなる意味も情報も伝達せず、ただ個人の固有性しか伝えることができないのである。」(p.114)……本稿の「記述」はこの「コンテクスト」にあたる位相であるともパラフレーズできる。いくらでもその意味を読み替え可能なテクストのパラバシスを調停するのは、わたしたちがそこに理解したいと思う〈コンテクスト〉なのだ




2018/4/22 updated