3Dスキャンとは回廊である

「ビヨンド・マテリアライジング」展についての覚え書き



 多摩美術大学八王子キャンパス・アートテークにて開催された3Dプリント作品の展覧会「ビヨンド・マテリアライジング」展(2018.11.13-22)の、入り口正面に据えられまさに番号「1」を冠せられた谷口暁彦《骰子一擲》(2018)は、一言でいえば落下したサイコロを3Dスキャンして周囲ごと3Dプリントしたオブジェが二種類と、3Dシミュレーション空間のなかで投ぜられ宙をころがるサイコロにその六つの目それぞれに幾度ものかつて落ちてその目をだしたときのようすがそれもまた3Dスキャンされたものが書き重ねられるかのようにひらめくレンダリング映像との二つからなる作品であり、さらに加えて、このオブジェと映像のちかくには本物のサイコロ──いや、既製品のサイコロと、3Dプリントしたサイコロと、どちらが偽物といえるだろうか、どちらも触れば目を出すのだから──がひとつさりげなく床に落ちていて、鑑賞者のなかにはうっかりそれを蹴飛ばしてしまう者もあろうが、これらに与えられたタイトル《骰子一擲》は言うまでもなく、ステファヌ・マラルメが1897年に発表した詩篇「骰子一擲」から採られている。

わずかでも一つの和でさえあるならば 和というもののもつ明証性として
(ステファヌ・マラルメ「賽の一振り」渡辺守章訳)


 マラルメはこの詩篇とその二十年以上前に書かれた断片「イジチュール あるいはエルベーノンの狂気」とで、おもに偶然について思索しており、とりわけ後者では、賽を振るという行為を、そうしてある一つの目に収斂し、そして停止した賽からはもうそれまでの動きを逆算できないという不可逆性をおそらく顧みながら、いまだ形を得ぬ偶然性を必然性へ投下するひとつの絶対的な手続きとして特権的にみなし、「賽の一振りが、予言を完成する」と簡潔にあらわすが、この「予言の完成」とはまさに谷口が昨年の個展《超・いま・ここ》において自作《jump from》(2007/2017)について述べていることを思い出させる。

予言とは、予言の対象となる未来から見れば、現在に過去の一部が表出してきたものとして、予言が行われた過去から見れば、現在に未来の一部が表出してきたものとして捉えることができる。つまり、予言はそれが行われた時間から、その予言の対象となった未来までの時間を、無時間的に接続してしまう構造を持つ。
(谷口暁彦「超・いま・ここ」ステートメント)


 さてこの「無時間的」といういいかたは、賽を投げてから落着するまでの連続的なうごき、谷口が3Dシミュレーションで示したようなうごきのもつ時間の経過とまるで食い違うようにさえ思われるが、しかし「無時間的」とはその二点のあいだに時間が流れていないことではなく、そのあいだをいかに時間がつづいていようともその二つの出来事の点をじかにつなぎ合わせるものが途切れぬ時間の流れではなく、むしろそれを迂回するあるいは短絡するような「関係」だという意味であり、それをたしか「過去/未来との関係が〈現象的時間〉として前後にあることよりも、表出という「無時間的」な作用によって関係していること」と胡乱な言い方をしたことを覚えている。

この「無時間的に」という修飾は、それらふたつの──存在論的に分断された──時間をつなぐ構造は、そのいずれの時間にも乗っていない、ということだ。
(大岩雄典「「いま」どうしの無時間的関係としての「超・いま」、またその上演舞台としてのディスプレイ──谷口暁彦《超・いま・ここ》について」)


 谷口はそうした、現象学的にひとつづきで見られる時間のなかに、過去の中に未来が、あるいは未来のなかに過去が垣間見えるような、垣間見ることができるようになってしまっているような、たがいにたがいを潜在させるような、つまり先行する現象が後出する現象の因子となるという因果関係とはちがうような、時間をまたにかける〈予言〉というテーマを《jump from》で扱っているのだが、いまようやく《jump from》について改めて説明すると、それはファミリーコンピュータ向けのアクションゲーム『スーパーマリオブラザーズ』(任天堂, 1984)を題材にした作品であり、一見ふつうにそれがプレイできるようになっているのだが、いざ鑑賞者がプレイしてAボタンでマリオをジャンプさせた瞬間だけ、画面は「かつて谷口がプレイしたときの映像」に切り替わる、といった作品であり、ここでなにより重要な点は、いま現在とかつて過去との二つのプレイが、同一のプログラムをもつ『スーパーマリオブラザーズ』を介して行われているということであり、つまり『スーパーマリオブラザーズ』が孕んでいる無数のプレイの断片は、実演されうるあらゆるプレイの予言となり、さらにそのプレイもまた別の予言ともなるような、〈相互予言潜在性としてのプログラム〉という一面である。

そして、「jump from」でその接続の構造を支えているのがコンピューターの計算処理になる。
(谷口暁彦「超・いま・ここ」ステートメント)


 この、そのなかに無限の予言を潜在させるプログラムはまさに、「みずからの観念を完成」した「偶然」である、とマラルメが指すところのものであり、たしかにマラルメが「イジチュール」断片を書きやめたとされる1870年は、プログラミングはおろかチャールズ・バベッジが解析機関の製作ついに未完のままこの世を去る前年であり、むしろ今ではプログラミングの初歩において乱数の応用題材とされるサイコロをすでにマラルメが計算処理的なものとして見出していたのは興味深い。

要するに、偶然が賭けられている行為にあっては、常に偶然が、みずからを確認するにせよ否定するにせよ、みずからの観念を完成する。その実在を前にしては、否定も肯定も挫折することになる。それは不条理を含んでおり──それ〔不条理〕を内包しているのだが、しかし潜在的な形においてであり、それが実在に到ることを妨げている。そのために、無限が存在することが可能になっている。
(ステファヌ・マラルメ「イジチュール あるいはエルベーノンの狂気」渡辺守章訳)


 さてかくして改めていえば、『スーパーマリオブラザーズ』のようなゲームは、すべて偶然性にしたがうものではなくとも、しかし多くの出来事を非単線的につないでそのネットワークを潜在性としてプレイヤーの足元にうっちゃっておくことで、おのおののプレイヤーは自らのプレイをそれぞれに上演し、その断片がつねにたがいを偶然的に指し示す〈予言〉となっているために、いずれそのゲームがまるごと壊れるようなルールの隙間があるのではないかというデバッガーの執着を待つ不条理を権利的にはつね潜在的に、そして事実的にはコードの穴によって実際に内包した〈観念〉として完成した〈偶然〉であって、だがより目を向けるべきは、ビデオゲームにおいてこうした個々の出来事どうしの予言となりうる操作ひとつひとつが連鎖的にむすぶのをオリ・ソタマーはイアン・ボゴストを参照しながらこの特有の人工物の特徴として「手続き性(proceduality)」と名付けていることだ。

プロセスが、〔ビデオゲームの〕ものごとを機能させるような技術そして論理を決定するとすれば、手続き性(procedurality)という言い方が、これらプロセスを創出し、説明し、理解するしかたをしばしば示すのに用いられる
(J.P.ウルフ&B.ペロン編『ビデオゲーム研究の手引き』よりオリ・ソタマー「人工物」)


 無数の手続きが、また無数の腕を伸ばして結び合わされている網の目こそが「偶然」がみずからを完成したところの観念であり、それゆえに何度もそこへ舞い戻りうる、プレイヤーを違えてでも舞い戻りうる、あるいはすでに通りかかってありうることでそこには無限の予言がときおり稲妻のように走る準備がすでになされており、さてこの手続き性こそ、本展のすべての作品とはいわずとも多くの作品についてふと思い出されたものであった。

インターネット上にある二次利用可能なCCライセンス付き3Dデータを使用し、独自開発のアルゴリズムにより2つの物の間の形をつくる。
(砂山太一《アインシュタインのぬいぐるみ アライグマの左上腕骨》(2018)に添えられた説明)

サイクルグラフを用い、就寝時のぬいぐるみの移動を可視化(make visible)し、シーツに横たわる線情報に、ポーズと厚みを付けて出力する。
(関真奈美《Pause と Pose》(2018)に添えられた説明)


 あえて断言してしまうならばメディアアートとは〈〜を〜に〉の芸術であり、何かをひとつ前に進めて何かに推し進めてゆく運動をその軸にもち、マーシャル・マクルーハンが「光はメッセージなきメディアである」と述べたのも粒であるみずからを先に先に運ぶ波もまたみずからであるという光の性質についての一家言とさえ曲解できようが、ともかくも、たしか先述した谷口個展にかんする覚え書きで、予言によって架け渡されうるふたつの途切れた時間の代表例として「撮影事前/撮影事後」を挙げているように、3Dプリントとは、あるいはなべてプリントとはひとつの手続きであって、写真にかんしてはその手続きの制度的慣習的なまとまりを、それは束概念のふうに外延をもつだろうが、写真装置と呼ぶことさえできるし、ここで3Dプリントやそれに必要なデータのある優勢な一形態を準備する3Dスキャンまで含めた一連の「3Dプリント装置」の手続きをまた見直させるように振る舞う作品が多く感じられ、またその装置の外延自体は写真装置ほどにはいまだはっきり慣習化しておらず、それぞれの作品において例化しているように思われた。

再生される映像は、再生される前に撮影されていなくてはならない。
(大岩雄典「「いま」どうしの無時間的関係としての「超・いま」、またその上演舞台としてのディスプレイ──谷口暁彦《超・いま・ここ》について」)


 もしくは雄に鋳出すためには雌型をさきに作らねばならず、さいごに〈3Dプリンテッド〉なもの〈に〉至るためには何〈を〉準備してその手続きにそなえようか──をめぐって本展の多くの作品は丹念にその手続きのバリエーションを検討せんとするように見え、それはつまり3Dプリントのためにいかなるプログラム=前書き(program)をなすべきかという視点だったが、谷口の作品にもどれば、《骰子一擲》でサイコロをスキャンするという選択は、ありふれた素朴な状況を3Dスキャンして刷り出すだけという点では、いかにもその3Dプリントの装置の外延に習慣的な拡張をせんとするいくつかの試みに比して保守的というか一見「基礎的」にさえ見えかねないが、しかしそうではなく、むしろサイコロというその六つの面がそれぞれに幾度も振られ出うるたびの出目として〈みずからの〉予言をなしており、それら「六面を張り合わせてできたようなサイコロ」は、まるごと「何百もの写真を張り合わせてできるような3Dスキャンデータ」のアレゴリーであり、ないしその何百もの記録の隙間に「それ〔不条理〕を内包しているのだが、しかし潜在的な形においてであり、それが実在に到ることを妨げている」のだ。

シミュレーションのサイコロが落ちる瞬間、サイコロに重なるように、スキャンされたかつてどこかの風景が現れる、風景は6つの面それぞれに埋め込まれていて、面が出る度、その風景が呼び起こされる。
(谷口暁彦《骰子一擲》に添えられた説明)


 わたしたちの眼は、厳密には二点といえどもいわばこの一点から対象を視界に収めており、その背後を同時にそこにおいて見ることはできないが、3Dスキャンはある対象について正面からそして左側右側背後また上方から同時に見たようにして撮影した面からその立体を、アルゴリズムをもちいて逆算するのであり、それは〈眼球〉といえど前方の水晶の軸上の焦点ではなく、むしろその球の中心を見るような、全球内向きの眼であるとさえいえるが──むろんそれらの写真がまったく同時に撮られているわけではない、そうまさに、現象学的な時間においてはそれなりの時間経過をもって何百回とシャッターが押されているのだが、いかにも被写体を動かさないように、照明などのステータスも変えないようにして撮られる相互の写真は、〈同時〉という無時間的関係を権利として与えられているのだ、とさえ言うことはできるだろう──、はたしてそれら何百の写真が、対象の周囲を歩き回るわたしたちの眼と違って連続的ではないことを思えば、このアルゴリズムは、その何百を除いた被写体を撮っていない無数の角度からもまたそれを見せるためその間隙を縫うように演算するしかなく、ここで3Dプリントとはみずからをその場で予言する予言そのものとなる──谷口の転がるサイコロの各面がたびたび、いつかその目が出えたような風景を「埋め込」んでいるように。

ただ 起こるための場の他には/下のほうに 何かしら波の音 だしぬけに まるで虚ろな行為を撒き散らすためのような/そうでないとすれば/虚ろな行為は その虚偽により/打ちたててしまっていただろう/曖昧なるものの/この海域における/消滅を/一切の現実がそこで溶けこんでいる曖昧なるものの
(ステファヌ・マラルメ「賽の一振り」)


 もはやすべてが「プログラム=すでに書かれて(programme)」いて、予言されていないものはなく、サイコロとはその意味で「回廊」である。

回廊corridor。疑いがある。誰が冒頭で語ったのか。
(ステファヌ・マラルメ「イジチュール あるいはエルベーノンの狂気」)


 3Dスキャンをするときにまずどこから始めるかにまったく意味はなく、ぐるぐるとその被写体を回り込むわたしたちの経路こそ回廊であり、すなわち対象の何百もの見えかたどうしを結び留めてプログラムとし、そこから、あるいはそこに、偶然の景色が別に誘い込まれえてよいような予言の潜在性、疑いを豊穣に詰め込むことこそ3Dスキャンそしてそれにつづく3Dプリントを準備するアルゴリズムだということは明らかで、そうしてようやく砂山太一《アインシュタインのぬいぐるみ アライグマの左上腕骨》もまた、きのこの形状とスパナの形状の中間に「きのこスパナ」の形状にあるのではなく、きのこの形状それだけを再計算するための風景のあいまあいまに「きのこスパナ」の形状はすでにあり、スパナの形状それだけを再計算するための風景のあいまあいまにも「きのこスパナ」の形状はすでにあることを示しうることに気づけるし、あらゆるものは回廊において見られているとさえ言える。

無限は偶然から出る。
(ステファヌ・マラルメ「イジチュール あるいはエルベーノンの狂気」)


 もちろん技術的に3Dスキャンやプリント自体が、きのこやスパナの形の中にまさに実際に「別のかたち」を見出した張本人であると言うのではなく、ただただ3Dプリンターのほうがサイコロのアレゴリーとしてむしろ働いており、3Dシミュレーション上で布を幾何形体の上に落下させてその突端に引っかかった瞬間の形状を3Dプリントで刷り出した山形一生《cloth simulation》(2018)を見ると、布はいかにもまた賽だとさえ言うことができるし──きのこも賽だ、スパナも賽だ──むしろその作品においてプリント表面の布のようなテクスチャが、3Dスキャンによって得られる類のものではなく、すでに存在した画像を表面に沿わせて貼り付けたものにすぎず、皺と皺とは合わず、ただ布の形状と布の質感とが量的にいちどに見られていかにもなお布らしさを増して湛えていることで「さらに別の布」となるのを見せうる技術として、3DCGソフトウェア上で可能な操作が、いかなる新たな〈〜を〜に〉の手続きを、3Dプリント装置に慣習の範疇に加えるかが、形状に関する手続きに執着する諸作品以上に、ここで実演されているのだ。

より多くでも よりすくなくでもなく
(ステファヌ・マラルメ「賽の一振り」)


 あるいは玉木晶子《Playing Othello》(2018)もまた、黒を上に刷られるオセロの駒を裏返しても樹脂の色があらわになるという「実在に到」らざるべき「不条理」の質と、一手と一手のあいだに玉木が駆け抜ける「どこかの風景」たちの具体さ奔放さが、黒い駒を白いマーカーで塗りつぶしてしまうことでようやく樹脂より白い駒を得、そこになかった手続きを発生させることと結びあうことで、連綿と閉包された諸手続きの結び合う回廊をいかなる権利で突破すべきかをあらわしてくれる。

ほぼ次の次第で。
(ステファヌ・マラルメ「イジチュール あるいはエルベーノンの狂気」)






2018/11/17 updated