この星々の促し(“忘れるな”という警告Mahnung)のなかには、体験としてはとっくに、消え去ってしまっていたものが、経験として存続していたのだ。なぜなら、愛しあう者たちのためにゲーテが抱かずにはいられなかった希望が、星という象徴のもとに、かつて彼の目に立ち現れたことがあったからである。ヴァルター・ベンヤミン『ゲーテの『親和力』』*1
新海誠監督のアニメーション映画『君の名は。』(以下「今作」)は、すべてが「ひしめいて」いる──たとえば二度挿入される、都市のシーンでは自動車の列がCGによってぬるぬると動き、その物体性・機械性、あるいは非人間性を顕著に表している。また今作では、従来の新海作品で顕著だった、「絵画-写真的に描き込まれた背景」*2と「記号的で平板なキャラクター」とのギャップ*3が大幅に改善されている。新海の十八番と言ってもよい、レンズ効果や反射色の利用を多用した「かがやく」画面は今作でも受け継がれており、とりわけ主題モチーフである彗星の描写、マジックアワーでの二人の出逢いの描写で発揮されている。従来の新海の光や色彩の効果は、宇宙や星空の壮大さ、人を超えた世界・運命のうごめきを象徴することで、個の関係における絶対的離別のやるせなさを強調していたが、今作では上記のようなギャップバランスの改良によって、人と背景-人ならぬものとの、デジタル作画における本来的・物質的な等質性が遺憾なくあらわれている。さらに今作では音響の効果が強く、編集の面では、従来の作品でも見られた、二人の視点を往復するように流れる挿入曲・主題歌であり、今作でのRADWIMPSの歌曲の多用は、ミュージカルのように感情と時間経過を圧縮する役を担っている。いっぽう、感覚的には、声が響くシーン、あるいは彗星の落ちたときの鐘の鳴り響くような音は、映画館のサラウンド環境を誇張するように用いられ、あたかも声が、音がスクリーンの中をこえて、空間、あるいは世界全体に「ひびいて」いるような感覚さえする。
「ひしめき」「かがやき」「ひびき」といった効果は、この映画の世界全体が一体として関係しあっている、という印象を与える。『言の葉の庭』で雨の緑色がさまざまなものに侵食し、たがいの関係を動的に関係させていたという細馬宏通の洞察*4を拡大しつつ援用すれば、赤系統の色と青系統の色がまじりあった「かがやくバイオレット」の光は、作品世界全体がすべてどこか関係しあっている──あるいは、「無関係になれない」とでもいおうか──ことを感じさせる*5。
それは作中で強調される「ムスビ」と呼応している。今作のヒロイン・宮水三葉は地元糸守の神職の家系であり、その祖母一葉は、三葉とその妹四葉に、土地の信仰である「ムスビ」について語る。「糸を繋げることもムスビ、人を繋げることもムスビ、時間が流れることもムスビ、ぜんぶ、同じ言葉を使う」「よりあつまって形を作り、捻れて絡まって、時には戻って、途切れ、またつながり。それが組紐。それが時間。それが、ムスビ」*6という言明は、人と人、さらに人と物とを結びつけていく素朴な「因果」「関係」への実在的信仰があらわされている。渡邊大輔はそれを「「人」(主体)と「糸」(非主体=客体)との流動的な相互干渉、ないしはそれらヒトとモノが混然一体とな」る、と表現し、風景表象と物語主題との呼応を指摘している*7。今作では、もう一人の主人公・立花瀧と三葉との「ムスビ」になるモチーフは多く信仰的な色合いを帯びている──酒、また体に刻みつける文字=刺青、捧物としての紐、なにより(本)名──さらにスマートフォンの日記も加えて、ここで「メディア」という語の原義である「霊媒(medium)」という言葉まで思い出してもいいかもしれない。
このような「すべてに光点や音が行き渡り、動的に関係しあっている」という世界観において、瀧と三葉はその物語──運命に翻弄されていくのだが、ここで注目しておきたいのが、彼らの辿る物語には「三叉路」──そう、『秒速5センチメートル』(以下、『秒速』)の冒頭に配され、また新海と同世代ともいえるアニメーション監督細田守が『時をかける少女』などで用いたような*8──、すなわち「取り返しのつかない選択」が、あまりプロットで見受けられない点だ。彼らの運命は数奇なものであり起伏にも満ちているが、しかし「何かを捨て去る」ような強い決断がないまま翻弄されていく。それは、冒頭に引用したテクストでベンヤミンが「神話的世界」とも呼ぶものとも言いうるだろう*9。
さて、ここまで今作の世界の「一体的なムスビ」に言及してきたが、しかし今作の主題として無邪気に「接続」だけを挙げてはならない。「ムスビ」というのは、三葉と四葉が飲み水を分け合ったり、また組紐を渡したりする、その都度のアクセスを指すのであり、「つねにむすばれている」という状況を積極的に指すものではない。それは、上述した一葉の言葉が「糸を繋げる」「人を繋げる」、と現在進行形──英語で言えばVingによる進行形──ではなく、現在形──英語て言うならばto Vによる不定形──で表現していることからも明らかである。よって、世界全体の「動的な光や音の共鳴」はあくまで、そこに「ムスビ」が生まれる可能性が、すべてに満ちているということになる。そのような世界観が、時間を超えての瀧と三葉の接続──入れ替わりも、出会いも──を保証するのだ。すべてはムスビの可能性に開かれているが、その都度の接続もあれば切断もかならずある。切断があることを忘れてはならない、ということは、繰り返しあらわれる「忘却」の所作によって強調されている。とくに今作のモチーフである彗星は、中田が指摘するように*10従来の新海作品における飛行物のように、予兆として「ただ横切る」だけではなく、地上に降りてくることで、決定的な「接続」も「切断」ももたらす。遠い宇宙から来るべき彗星にはその到来の理由などない、その無理由的な接続・切断こそが今作の中心に位置している。
しかし、そのような「いつでも接続が、切断があり、また再接続もありうる」という拓けた可能性が、今作では一見「ご都合主義」かのように見られることは多い。彼らの出会いは奇跡なのに二度も結局は出会っている、そのうえ時間を超えた出会いは、あまりに都合がよくないだろうか?──実際今作で新海はエンターテインメント性に多くを振り切っているのであり*11、そのようなシーンが「奇跡の見せ場」として機能していることは否めない。しかし新海作品において顕著なのは、多くの論者が指摘しているようにその「編集による、呼応・同期の演出」である。新海という作家は、モンタージュの技法を用いて、場所も時間も、あるいは種族さえ離れた──『彼女と彼女の猫』──距離を、「重なり合う声」「交互につづく声」において接続してしまう。モンタージュ的に用いられてきたその技法は、今回は「たがいに入れ替わる二人を交互に描く」という形で、物語プロットと癒着しており、「呼び合うことで、実際に出会える」という演出も、その類として認められるものだ。つまり、今までの作品では「離れた二人のかろうじてのつながり」は、モンタージュした映像・音声を見せられる観客がその目撃者となることで確保されていたのだが、今作ではその「目撃者」という位相が作品内の人々やガジェットに降りることで、その「つながり」を支えているのである。(よって観客は相対的に、さらに「上位」の目撃者になるが、それについては後述する。)
今作はそのように、つねに世界における存在は接続にも切断にもひらかれている──という主題をもち、そのひとつひとつが「ムスビ」というモチーフの磁場にあらわれる。それは現在のメディア状況に照らせば「Twitter」的なものともいえよう。facebookは「たがいに友達であること」をベースにしたソーシャルネットワークサービスであり、つまり究極的にはホーリスティックな友達の一体感を求めている。またLINEは連絡アプリケーションであるが、ひとつひとつの発言に「既読」のしるしがつくために、「一言すら漏らさずに」という全体性が神経症的に満ちている。いっぽうTwitterはあくまで「だれかがだれかをフォローする」のであり、相互性はかならずしも前提されていないために、「全員がたがいに向き合う接続」を求めない、切断を抱えこんだシステム──つながっていそうで、必ずしもつながらない──になってもいる。リツイートで舞い込んでくるツイートはさながら「彗星」のようにタイムラインを切り裂き、その瞬間での出会い(そして多くの場合、切断も)をもたらす。ちぐはぐで理由のない接続・切断のうち、今作は「奇跡的な接続-切断-再接続-切断-再々接続」を描いており、それ自体をご都合主義というのはトリビアルな指摘だろう。今作は時間を超えることを認めていることで、ムスビの可能性が無限に発散しているのであり、このような奇跡ははたして同じように無限に発生しているだろう。それはもはや「必然的にある奇跡」である。
そのような「切断にさらされていること」が、今作では、ムスビのアイテムへの執着のなさ・脆さにおいて描かれる。夢から覚めた記憶が長続きしないように、デジタル媒体の日記は消滅してしまうし(描かれていないが、ノートに記録されたものも同じだろう)、三年という長い時間を超えて二人をむすびつけた組紐もあっさりと返してしまう*12。ペンも落としてしまうし、ペンで名前を書ききることもできない。彼らにとって、物質的なコミュニケーション・記録はあくまで一時的なきっかけにすぎず、また時間を超えている以上、それは一時的でなくてはならない──夢は、物質的なコミュニケーションの永続性を許さない──のだ。そうしたひとつひとつの切断はあってしかるべきものであり、そこで執着してもしかたない、という態度はとくに、三葉が髪を短くしたことが、やけにあっさりと処理されていること──「これ、前の方がよかったよな」「軽っ……」──からも伺える。電話やメールがつながらないのは、あくまで「記憶」を経由することが二人の接続の条件なのであり、文字やアイテムなどの物質性をともなうメディアはあくまで副次的なものにすぎないのだ。
ゆえに、それらは夢のように忘却され、消えゆく。しかし「名を覚えていること」「名を呼ぶこと」「名を問うこと」だけは、彼らをしっかとむすびつけることができる。
新海は、疑似恋愛や恋愛未満の関係の甘やかさと、またその甘さを絶対的に引き裂く距離とを長らく主題にしてきた*13──が、今作でもそれは「時間のズレ」という形で引き継がれている。先述したような、編集レベルでの「離れた二人のかろうじてのつながり」は、観客を目撃者とすることでむしろその距離感を強調し──今作ではさらに叙述トリックが用いられて──、その距離を埋められないというやるせなさ、喪失感を裏打ちする。さて、先述したように、ここで「遠くにいる者たちの声がひびく」という新海得意の演出は、作品内、糸守の山でおたがいの声がひびいて聞こえるという位相にまで降りており、二人を実際に出会わせる。名前というのは相手を象徴する記憶それじたい、記憶の核であり、名を呼ぶこと・問うことが接続のきっかけになりうる。ゆえにふいの別れのあとも、二人はおたがいの名前を忘れないように呼び続ける。彼らは名前には執着しているのだ。では、なぜ瀧は自身の名前でなく、「すきだ」という想いを書き残したのか?
それは、名前もまた忘れてしまう言葉である、ということによる。実際彼は三葉の名前をいちど忘れかけているのであり、名前自体よりも、告白で伝わる想い──そう、『時をかける少女』のラベンダーの香りのように──あるいは、「朝、目覚めるとなぜか泣いている」──こそが残ると気づいているからだ。名前は薄れても、「なぜか泣いている」という「経験」──冒頭の引用を見よ──想いは残る。そこでは、従来の「つながらなさ」「途切れ」を無為にキャンセルせず、忘却に向き合ったままの希望だけを残している。
ところで、渡邊は、加藤幹郎『風景の実存』を参照しながら、新海作品で描かれる風景や事物、また人すべてに「可塑性」が行き渡っていることを挙げ、さらに可塑性とは「かたちを維持しようとする力能」(硬直性)と「かたちを与えようとする力能」(柔軟性)とのせめぎあいによる準-均衡状態であると指摘したが*14、この「可塑性」概念は、キャラクターという存在にも関わるものだろう。
昨今のキャラクターがその出自を、集合的な文化の記憶であるデータベースからの生成に負うことはいまや語られつくしている*15が、さやわかが『キャラの思考法』でデリダ思想をほのめかせつつ強調するように*16、キャラクターの存在じたいが、自己のデータベースからの再生成に依存しているのだ。つまり、キャラクターの生は自身の二次創作に依存していると言っても過言ではない。公式・非公式かかわらず、キャラクターたちの二次創作は今日多量に生み出されているのであり、そのような「散種」の柔軟性と、しかしひとつの存在としてあらなければならない硬直性とのせめぎあいとして、キャラクターはそれじたい当然ながら可塑的なものである。新海作品のキャラクターも──公式の外伝=二次創作の小説が出版されているように──、同様であり、画面や演出のダイナミズムは、彼らがキャラクターといえども「時間を生きる」ことを表現しており、新海作品の「終わりゆく」雰囲気を支えているのである。
さて、その「時間の生」において移り変わり失われるものとして、今作では「記憶の喪失」が対応しているのであるが──忘却なしの生は、前には進まない──ここで「夢や記憶は、現実の二次創作である」というテーゼを掲げよう。夢はフロイトやラカン、あるいは荘子を持ち出さずとも、「ありえなかった現実」「組み替えられた、たとえ平時の想像力では達せなくとも、可能な現実」の地位をもつのであり、記憶もまた(およそ美しく)改変された現実である*17。ここで、キャラクターたちに生まれる大量の二次創作たちはすべて、彼らのありえた生、可能だった生だと言うことができるだろう。彼らキャラクターたちは、「正史」よりはるかに多い生を、可能な生を、記憶や夢のように抱えている──それが「柔軟性」──である。そのいっぽうでそれらは矛盾したり膨大であったりするゆえに、取捨選択され、ほとんどの二次創作──公式のスピンオフで作られるものから、Twitterやpixivでたった一枚流されるイラストまで──は、ありえたかもしれない記憶、夢として、たしかに存在したのだが、しかし忘却されなければならない。すべての記憶・夢を、ひとつの同一性・人格(character)のもとに抱え込んで生きることができないからこそ、われわれ/キャラクターたちは忘却し、喪失するのだ*18。
その忘却のさなかに与えられた「希望」こそが名を呼ぶこと、名を問うことだ、と本稿前半で確認した。名前とはキャラクターがそこにおいて同一性を保つ「核」であり*19、ゆえにキャラクターは宿る魂であり、それは今作での「名を忘れることで、記憶も失う」ことにつながる。その名を忘れ去られれば、二次創作という可能な生を作られることもありえない*20。
さて、ここで今作ではいかなる「可能な生」が忘却されているのか? 瀧と三葉は何度も離別の危機にさらされながらも、しかし最終的には奇跡的に再会しているように思われる。いかなる絶対的に喪失された「忘却」があるのだろうか?
今作において、三葉は一度糸守の街で死ぬのだが、瀧という身体を介したタイムリープを経て、記憶を失いながらも、街を救い、生きながらえる。このリープ、紐にみたてるなら一度のねじれが消え去るように、ここでは「滅亡する糸守」が絶対的に、二重に、喪失・忘却されているのだ。しかし、結局「糸守は救われた」じゃないか、お望みの奇跡が起きたじゃないか、と指摘されるかもしれない。そうではない。今作が、時間を超えることを許し、それにより「この宮水三葉」においては、リープを経て糸守を救済したが、しかしこの「時間を超えることの許容」は、つねに、突然にまた彼ら──あるいはわれわれ──が、「滅びゆく糸守の人々と接続される」可能性を、無限に残しているのだ。三葉の友人である、勅使河原や名取、また四葉らは、リープを経験していない。そこで世界はあくまで「分岐した」にすぎず、──変えられる歴史に正史などない──わたしたちはつねにその可能性にさらされているのだ。それは、糸守の滅亡だけにかぎらない、何も通じない相手、未来、あらゆる可能性に(意味なく?運命的に?)ふいに接続し、そして切断されうるという無限の可能性に、眠るたびに、あるいはデバイスを触るたび、酒を飲むたび、紐をつかむたび、死ぬときに、さらされているということなのだ。
滅んだ糸守の街には、東日本大震災の記憶が重ね合わされているという指摘が多い*21──そこで「破壊された電車」が描かれているのは象徴的だ──。それはひとつの悲劇的な記憶であり、そしてこの物語では、二重に「忘れ去られゆく」ものである──記憶の風化だけでなく、存在しなかったものとしての忘却──繰り返すが、時間を超える物語なのだから、いかなる絶対的救済もない。
そういった「ありえた生」すべてを償う・あがなうという倫理は、『魔法少女まどか☆マギカ』でも試みられたものであった*22が、『まどマギ』は、すべての物語の可能性を救おうとしたゆえに、大きな犠牲を祓い、また結果として、倫理的な態度は示したものの打開的な方向性には至らなかった*23。いっぽう、ホーリスティックなすべての物語への救済・責任=応答可能性(responsibility)ではなく、ひとつの救済を示すだけにとどまる新海誠においては、あくまでひとりひとりが、そのたびごとの「忘却のなかで名を呼び続ける希望」というミクロな視点を持ちつづける倫理の一端こそが示されている。しかし、作中の瀧も三葉も、「柔軟性から硬直し、同一性を保つ生」しか生きられないのであり、滅亡の記憶は薄れゆき──「ありえなかったこと」なのだから、夢と同じだ──ありえた滅亡への救済はつねにかなわない。では、誰がその、「可能に滅亡した物語」「忘れ去られる悲劇」「どこか遠くの悲劇」を救済しうるのか?それは、観客であり、そして「滅亡する糸守」と「救われた糸守」との両方を目撃したわれわれしかない。われわれは、『ほしのこえ』の二人や、『秒速』の二人が惹かれあっていることを目撃したように、瀧と三葉の交流がたしかにあったことを目撃しながら、同時に、(それこそ都合よく)滅亡しえた糸守が消え去ったのではないことを、記憶しつづけ、名を呼ばなければならない。ひとつひとつの奇跡を見届けるとともに、ひとつひとつの〈奇跡ではなかったこと〉が、奇跡と同様に無限にありうることを、見届けること。それが、希望を持ちつづけること、瀧と三葉がふたたび出会えたことの証左でもある。愛するもの、愛したきもの、そして災いの名をも呼びつづけること、それこそが今作で示された、なにかを忘却しなければならないわれわれがもちうる希望だ。
「存在できなかったものの消失」「可能性の消失」「外側への喪失」を描く新海の物語は、『秒速』で三叉路で選ばなかったほうのような喪失にくわえて、『君の名は。』では、ひとつの一本道の奇跡のねじれのなかで失われた可能性という、もうひとつの喪失を、希望とともに描いたのである。生き残った瀧と三葉だけでなく、死んでいった三葉や、勅使河原や名取、かれらにもまた、「ムスビ」の可能性がある。それが、滅亡した糸守にも、新海の「光」「色」「音」が響いていたゆえんなのだ。
冒頭の引用をふたたび、そして、新海作品から台詞を、並べて引こう。
この星々の促し(“忘れるな”という警告Mahnung)のなかには、体験としてはとっくに、消え去ってしまっていたものが、経験として存続していたのだ。なぜなら、愛しあう者たちのためにゲーテが抱かずにはいられなかった希望が、星という象徴のもとに、かつて彼の目に立ち現れたことがあったからである。〔…〕希望なき人びとのためにのみ、希望はわたしたちに与えられている。ヴァルター・ベンヤミン
ああ、夢が消えていく。ああ、そうか、私がこれから何をなくすのか、わかったサユリ,『雲のむこう、約束の場所』