谷口暁彦個展《超・いま・ここ》(CALM&PUNK GALLERY, 2017.4.8-23)と、また会場で行われたトーク(2017.4.15 17:00-19:00、谷口、永田康祐、Houxo Que、山形一生)に伺った。
本展示は谷口の過去の作品から、一部を再制作などして一堂に展示したものだ。会場では、谷口の過去の作品一覧(展示されていないものも含む)を、本人によるキャプションつきで紹介した大きなペーパーと、また、それぞれの作品がそのように再制作された(あるいはされていない)かを示したペーパーが配布されている。前者に掲載された長文テクスト『超・いま・ここ』では、谷口によってセルフ・キュレーションされた本展示の作品群が、「予言」「同期」「ディスプレイの物理的な存在」「シミュレーション」「折りたたまれたディスプレイ」というキーワードで紹介されている。
まず《jump from》という作品は、ディスプレイには任天堂の『スーパーマリオブラザーズ』のゲーム画面が表示され、手前の台に置かれたコントローラーを操作して、鑑賞者がプレイできるようになっている。だがプレイの途中、マリオをジャンプさせてブロックを叩こうとした瞬間、画面は突然、誰かが同じゲームをプレイしている様子に切り替わる。そこには、モニターに映ったマリオのプレイ画面と、コントローラーを操作する両手が画角に収まっている。マリオが無事ブロックを叩くと、画面はもとのプレイ画面に戻る。鑑賞者が操作できるプレイ画面を「A」、切り替わった先の、かつて撮影されたプレイの様子を「B」とする。その後も、「A」で土管や穴を飛び越えようとするたび、画面はその「B」に切り替わる。そしてゴールまでたどり着くと、画面は「B」になり、そのプレイをしていたのが谷口だと判明する。谷口は画面のなかから、ビデオカメラ(鑑賞者からすれば、画面そのもの)を掴んで、操作し停止させる。
さて、「かつて撮影されたものが再生される」という(実写)映像の性質について、〈存在論的な時間〉というキーワードから考える。再生される映像は、再生される前に撮影されていなくてはならない。これは論理的で、存在論的な〈事前〉の規定である。この構図はさまざまな形式に見出すことができる。明日より先に今日があり、上演のまえに戯曲がある。展示のまえに設営が、実行のまえにプログラミングの実装があるように、再生のまえに録画があるのは至極当然である。もちろんこの関係は素朴に観念的なもので、その存在論的規定に注目することで、撹乱させることはできるだろう──以下の作品評にも展開されるように。
ここで「B」は「A」より存在論的に事前にある──し、それは意図的に明示されている。挿入される「かつてのプレイのようす」は、モニターに表示されるマリオのプレイそのものの録画でもよかったはずなのだ(技術的にはむろん可能だ)。情景そのものをビデオカメラで録らずとも、似たような構造は実現できる。だがしかし、「B」にモニターのベゼル、あるいは谷口の両手とコントローラーが映っていることは、それが「その場で演算されているもの」ではなく、「かつて一度おこなわれたプレイの撮影」であることを表象としてふくんでいる。撮影-再生という関係にあるかぎり、それは鑑賞者がまさにプレイしているときとは隔てられた〈存在論的な事前〉である。それは『超・いま・ここ』「予言」のチャプターでは「過去」とシンプルに呼ばれている。谷口によれば、「B」でのマリオのプレイされる振る舞い──ブロックを叩く、穴を越える──は、〈予言〉である。予言とは「予め=あらかじめ」という語が含まれるように(英語のpredictionでも、preという接頭辞は「前もって」を表している)、予言される対象にたいしては〈存在論的に事前〉にある。さて、存在論的に事前というのはいかなることか。それは、それに対して存在論的に事後にあるものと、原理的・論理的に事象が共在できない、ということだ。「A」の最初の瞬間は、「B」の撮影の最後の瞬間より、存在論的に前にある。そこには絶対的に時間を隔てる壁があり、別のタイムラインとなっている。現象的に連続性があるかどうか──この同じ地球のうえで、ゲームをプレイした谷口が、この作品を作った──という領域とは異なる話だ。それは『超・いま・ここ』で、「予言された時間はそれが行われた時間から、その予言の対象となった未来までの時間を、無時間的に接続してしまう構造を持つ」と記されている。この「無時間的に」という修飾は、それらふたつの──存在論的に分断された──時間をつなぐ構造は、そのいずれの時間にも乗っていない、ということだ。谷口の「予言とは、予言の対象となる未来から見れば、現在に過去の一部が表出してきたものとして、予言が行われた過去から見れば、現在に未来の一部が表出してきたものとして捉えることができる」(『超・いま・ここ』)と述べるが、その意識された対句の構文は、過去/未来との関係が〈現象的時間〉として前後にあることよりも、表出という「無時間的」な作用によって関係していることを重視している。それは存在論的な時間関係である。
さらに谷口のテクストの同チャプターで注目すべきは、その予言内容と出来事との関係が「似ている」ことを重視している点だ。「A」のある瞬間と、それに差し替えられた「B」のある瞬間の録画が「似ている」というのとは、それらが、記号的にしろ運動的にしろ、似てしまっているということだ。「B」で表示されるマリオは鑑賞者が操作しているものではないことは、明示された撮影行為の表象──「これはかつて撮られた誰かのプレイだ」──によって認識されるいっぽうで、だが「いずれにせよ、このような感じで、マリオは動いていただろう」という、甘い認識が起きる。この「甘さ」は、トーク中で指摘された「あいまいにすることで、ハードやソフトの仕組みにおいて、認知に類似をもよおす」ことと通じる表現だ。マリオのジャンプが物理的であること──マリオ空間における物理演算──によっても、この運動の主体性は、まさにマリオが空中にいるように宙吊りにされる。実物理空間にいるわれわれも、一度ジャンプしたら、われわれがいかなる個人であろうとも、いかに自分の意志でバタつこうとしても、物理的な放物軌道にしたがうしかないのだ。こうした「物理現象の非主体的な宙吊り」は、谷口の他の作品にも見いだせる。
さてここで論じるべきは、その「宙吊り」という認知の隙において、ある貫通が起きているということだ。それは上述の「無時間的」な性格をもつ貫通であり、つまり存在論的な事前と事後とが、(この鑑賞という現象学的な時間のなかで)あるプログラムによって結びつけられているのだ。さて、プログラムというのは純粋な情報であり、情報とはたしかに何らかの物理的基体(あるハードウェアや、あるいは電子のかたちであっても)を伴ってしか存在できない、というエイドス/ヒューレー的な構図をもついっぽうで、しかしエードスのように無時間的に実在するともいえる(機械語でどうこう、というのも本質的ではない。ここでプログラムとは「どのようにふたつの時間を関係づけるか」という関数的な情報だ)。谷口が、予言と被予言対象とのあいだにみる「無時間性」とは、純粋に情報的な関係だ。そもそも存在論的事前と事後という時間の関係が「論理的」である以上、それは情報的に関わっているのだ。谷口作品の眼目は、その「無時間な関わり」が、それでも鑑賞者の鑑賞=プレイという現象的な時間のうえの現象として表象される、ということだ。これもまた改めて、エードス/ヒューレー的構造だともいえる。もちろんその関係を──たとえばテクストのように──、比較的無時間的な印象をもつ現象で実装・説明することもできるが、谷口作品でそれは、ある現象的時間における「宙吊り」の隙をついた形で実装される。それはフィクショナルなあり方だ。
ところで〈フィクション〉というのは、存在論的な分断に存するともいえる。それは存在論的な問題なのだ。フィクションは位相的に、「それがフィクションとして認識される外側」をもつ。フィクションは内部からはフィクションとして認識されない、というより、それをフィクションと認識しない範囲の内部を、外部からフィクションと呼んでよいともいえる。永田は冒頭でメタフィクション(厳密には、佐々木敦が言うパラフィクション)の話を提示したが、メタフィクションとは、その存在論的な分断を越えて内部にフィクションを位相的に抱える構図を指すのだ。つまり、自身が世界として境界とその外部をもつということを存在論的に自覚しているフィクション、それがメタフィクションだ。ゆえに、メタフィクションの構造それ自体はトポロジカルな存在論的関係である。それはHouxo Queが本展示タイトル《超・いま・ここ》の英題Hyper Here Nowの「Hyper」がハイパーテクストを参照しているのではないか、と指摘したことにもつながる。個々のテクストを超えた、「テクスト」どうしがいかにリンクしているかという関係、超-テクストをハイパーテクストと呼ぶ。もちろんテクストの関係はそれぞれのテクストにHTMLで内在的に記述されるが、関係そのものがそのテクストのレベルで表象されているわけではない。そこにあるのは、ここへリンクする、というある種の「予言」的なものだ。ゆえに、その関係をあらためて表象しなおしたとき──サイトマップのような──、それはささやかな「メタテクスト」と言えるだろう。それは紙の書物でいう目次のようなもので、サイトマップもまた或るページである、というのは、紙の書物において「目次も本文も閉じられている」という現象にすぎない。関係自体は、関係されるものとは別の存在論的性格をもつ。《jump from》においてはそれは、ある背後のプログラムと、それが結びつける「A」「B」ふたつの映像との関係であり、その現働した切り替わりが現象的時間において起こるのは、繰り返すようだが、エードスがヒューレーの形で見えるということに似ている。それがある「宙吊りの隙」を突いてくることで、存在論的な隔たりそのものが鑑賞者に感性的にあたえられるのだ。このプログラムに立脚した関係として、それは「同期している」。この同期という言葉は「同時」ではない。同時というのはひとつの現象的時間のうえで起こることだ、とすれば、同期synchronizeというのはふたつの時間の存在論的関係を指すのだ。
おなじく「予言」のチャプターで触れられている《inter image》も、《jump from》に似た構造をしている。タッチパネル画面を指でなぞると、その位置や速度にあわせて、さまざまな「動き」の映像が再生される作品だ。それら映像も実写映像であり、撮影-再生の問題系においてやはり存在論的に分断されていることは言うまでもない。《jump from》との違いは、《jump from》の「A」「B」がいずれもマリオを映していたのとは異なり、《inter image》の映像は指の動きのみならず、船や鳥、また谷口自身の身体運動など多様な映像に切り替わる点だ。ここでは、「いずれにしてもマリオ」という記号的-キャラクター的つながりをもっていた前者と異なり、たんに動きが似ているという点でのみ「甘い認識」が生じるということだ。それは、「まるで指がこの映像を動かしているように見える」ということだが、さて、本当にその鑑賞者の指はその映像の船を動かしているのだろうか。まず、プログラム的には、その映像は指を左右させるとそれに合わせて左右するのであり、その意味で強くインタラクティブに「指を前後させると船も前後する」と言える。しかしいっぽうで、現象的な時間において撮影された映像のなかで船は往復などせずただ一方向に進んでいるのだから、「指が船を前後させているのではない、船は船として現象的にただ前進しているのであり、動かしているのはその映像の再生位置にすぎない」ともいえる。このギャップのような認識が生じるのはやはり、二つの隔たった時間の関係が、プログラムという無時間的なものに存していることに存する。プログラムはいずれの現象的時間(この鑑賞の時間、かつての船の進行)の進みに軸足を置く必要もない。それらを「関係づける」方法は、《jump from》においては「ある特定のエリアでマリオがジャンプすること」だったように、「指の位置」に、ある程度連続的に対応しているにすぎない。ここで連続的というのは、離散的ではないという意味ではなく(むしろ離散的であることが存在論的関係の重要なポイントだ)、《jump from》のおおまかなリンクと異なり、一見稠密して対応づけられているということだ。さて、《jump from》にせよ《inter image》にせよ、ふたつの時間の「時刻」をいかに結びつけるか、というプログラムのもつ無時間的自由は、テクストの「どの文字をリンクにするか」の実装がテクスト内容に依存しないということに似ている。谷口はそれを「データベースと、データベースに対する検索の関係」とも『超・いま・ここ』内で語っており、「互いを潜在的に予言したまま離散的な状態で保存され」というのは、まさに存在論的に隔たったものどうしの関係が連続的な基体をもたない=離散的な状態で保存されているゆえに、どの現象的=現働的時間で「予言実行=成就」するかは潜在的にとどまる、ということを示している。
「予言」のチャプターは上記二作品を扱いつつ、それらではまだ(本日のトークの主題である)ディスプレイが意識的に用いられていない、と述べる。だが「しかし、これらの作品のディスプレイ上で起きている出来事が、のちの作品に影響を及ぼしている。遡ってみれば、この時点の僕は、過去に起きた出来事が蓄えられ、それが計算によって現在に表出し、現在を演じる場として、ディスプレイを捉えはじめていたように思う」と記述が続くように、そのような作品構造がディスプレイ上で実装されたことが、谷口にとっての、ディスプレイあるいは後にはiPadというメディウムと、主題との、触発的な関係を準備するのである。むろんこの、現象学的鑑賞の隙をついて存在論的な時間関係そのものを主題に出すという試みはディスプレイにかぎらず、従来的な再生映像や演劇、また永田が紹介した『デス博士の島その他の物語』のようにテクストの形でも実装できる。だが谷口作品は、ディスプレイというメディウムの性質をよく利用して、そのトリッキーな構造をよく表す文法を確立しているといえる。
つづいて『超・いま・ここ』のチャプターは「同期」に移る。ここで扱われる《夜の12時を過ぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのかわからなくなる》という、実物の時計と、それに時刻が一致している時計の映像が並べられた作品は、トークの冒頭から終盤までとくに話題にあがった作品である。永田・山形はトークの後半で、谷口および登壇者の作品をその性質で分類した──平面レイヤー的な問題系、同期しているように見える、同期している、デバイスの問題系、というように──のだが、この《夜の12時を過ぎてから〔…〕》だけは分類しがたい、と特権的な位置に置かれていた。
これにはそもそも「時計というものは、実物であれどしかし機能としては表象である」という性質による。これは日時計でも水時計でも同じだが、時計は結局のところ機能に特化した映像でしかない。時計とはそれ自体、純粋に存在論的に隔たったある時間を、われわれの現象学的な時間において表象して、針のある角度と、また水晶や人間の操作、また地理的条件やグリニッジ標準時、時差、原子の振動の参照という文化も含めた何らかの「プログラム」を経由して、われわれが生活する「この時間」と関係しあっているのだ。時計の数だけ時間がある。「5分前行動に設定した時計」がある意味予言的に働くことも、同様の無時間的関係を、時計がその性格において抱えているということを示唆している。おおむね時計とは、「その安定した一方向的表象をある規準として、われわれの物理的空間と対応するものとみなし、生活の指針として扱って構わない」という存在論的関係を与えられた、しかしそれ自体としてはあくまで隔たった時間と関係づいたものなのだ。映像は時間の界面である。さて、《夜の12時を過ぎてから〔…〕》に戻れば、「時計を撮影した映像」は、並置された実物の時計ごしに、まずわれわれのこの鑑賞が存している現象的時間と存在論的な関係にある。しかしその実物の時計自体がわれわれの時間と存在論的関係にあるのであり、メタメタフィクションはメタフィクションでしかないように、ここで位相的な短絡が起きるのだ。細かい誤差はひとまず措くとして(むしろこの誤差が、マリオの着地点のズレのように、それぞれの存在論的関係の差異を際立たせる)、それが谷口の言うような「機能」の点で一致しているならば、すなわち、実物の時計も、それに同時的に同期している時計の映像も、いずれも現在の時刻を知るのに使えるならば、「どちらがどちらに合わせてあるのか、という問い自体が宙吊りになる」のだ。「合わせる」というのはこれもプログラム的な問題であり、つまり「どの点がどの点と対応づけられているか」という情報である。ここで、「同期しているようにみえる」と「同期している」との違いが認知的-現象的なものかプログラム的-情報的なものか、という差異によるという弁別もまた、そもそも時間-時計じたいが「われわれの生きている時間にたいして、同期しているようにみえるだけでしかない、そうというほかない」以上、《夜の12時を過ぎてから〔…〕》は必然的に二つの性質が抱え込まれて、存在論的関係のなかで混淆してしまうのだ。それぞれを腑分けするときにいずれの時間関係にもとづくか、ということで、原理的に混淆する。ここにおいて谷口は「これ〔予言〕が全面的に行われる事態(撮影された時計が普通に時計として使えてしまう事態)において、そうした時制の比較が無意味になり、予言が記述するものは別の領域を形成しているように思う」と、「別の領域」=無時間的な関係性が離散的に保存されている領域を感性的に受け取っている。時制とは言語学的な用語であり、過去と現在、未来を動詞の活用などで弁別するものだ。goingと言った時制、goneと言った時制は存在論的に分断された時間である、と考えられる。その比較が無意味になるとは、存在論的な順序があいまいになり、そもそもそこに弁別があるのか疑わしくなってくる、ということだ。──"The word "written" is written and was written."
展示タイトルに含まれる「いま・ここ」という語はベンヤミンの〈アウラ〉の定義から引かれるものだが、それ自体、時間がただ一回だけここで過ぎ去るという現在性を感性的に受け取るものであり、「超・いま・ここ」という名称は、それぞれの現象的な時間にたいする存在論的な間-時間関係、インターローカルな領域を感じ取るという語としてとらえることもできよう。
谷口は《夜の12時を過ぎてから〔…〕》について、その予言関係の全面化を「シミュレーション」と言い換える。それは、《jump from》にたいして《inter image》で、無時間的な関係の密度がより細かであることを踏まえれば、実質稠密させたものとしてこの「シミュレーション」を捉えなおすことができるだろう。つまり敷衍して言えば、時計や映像そもそもある時間のシミュレーションなのだ。
だが「ディスプレイの物理的な存在」というチャプターで言及されるように、そこには「ディスプレイそのものの物理的な存在やその特性をどう扱うかという問題が現れてきてきた」とある。《jump from》や《inter image》でのディスプレイの扱いは、一般的な映像作品あるいはインタラクティブな映像作品における扱いと変わらず、つまり美術展示の文脈においてその性質は比較的透明化している(谷口のテクストで言われる「透明感」とは無関係な語法である)。だが《夜の12時を過ぎてから〔…〕》では、実物の時計と映像とが並置されることで、その差分であるディスプレイという物体、また撮影という事象それ自体の表象(撮られたような画面の質──光が撮られている、ということ──)とが前面の問題として出てくる。(時計という)映像の(撮影された)映像、という二重修飾が、あらためて「映像とは何か」あるいは「その映像が上映される画面・ディスプレイとは何か」という問題を際立たせる。トークではブラウン管tubeと液晶型画面displayという物体的な区別が指示されてきたが、そもそも映像を経由した存在論的な関係を眼目し、また「その関係自体」に彫刻性を見出す谷口からすれば、その現象的な立体性はいささか後景化しているのだろう。《置き方》(シリーズ作品のようだが、本展示では「オットセイと本」だけ展示)や《夜だけど日食》もまたその問題系にあり、ここまでの作品では(時計も含めて──むしろ時計が結果的にその”最後通牒”となった)映像とかかわるわれわれの身体経由でのインタラクティブで「無時間的な関係」を実装していたのだが、本作品群から谷口はインタラクティブ性をほぼ「おなじ現象的現実において、見て認知する」ことに限定する。これはインタラクティブの弱い意味で、「いかなる物体も見ている時間とともに、そのようすは微々たるかたち・語るほどではないかたちでも変化している」ということであり、本来「インタラクティブアート」を語る際には、定義があまりに広がり従来の絵画や彫刻、あらゆる自然現象の観照も含んでしまうという理由で退けられる立場だ。だが、谷口作品の文脈において鑑みれば、「見て認知する」ということは、時計がその「見られて認知されることで、人間たちの時間と機能として、存在論的関係をむすぶ」ように、素朴だが強力な関係である。じっさい用いられる映像も、《inter image》の断片的な動きや《夜だけど日食》の延々と明滅する電球など、それ自体「時計の針」のように、現象的時間の性格をいくらか節約された映像が選ばれている。(それには撮影画質の向上もあげられる。そこには撮影行為自体の表象が、感性的に──たとえばポラロイドカメラの褪せのような──は主張されない)
谷口はさらに、ディスプレイという「映像が表示される、ある程度の物理的性質をもったモノ」自体を、光や吊り下げなどの物理的現象に置くことで、「ディスプレイそれ自体もまた映像のように扱う」ことを実践している。それはどういう意味か。静的で、目立った物理的・認知的変化の起きないディスプレイは、展示における什器や機材の文脈で透明化される。しかしいっぽうで透明化というのは、物理的にありありと存在していながら、「イメージ」の領域に片足を突っ込んでいるとも言えるのだ。それは什器や台座がいかにもその物量・マスを差し引かれたイメージとして鑑賞されているか、という話にもかかわる。ディスプレイはその「機能」において、それ自体イメージ化しやすい。それは時計がもはや映像にすぎないというのと同じであり、それは「”ディスプレイが映像を映すから”、その映像の性質が外側にも滲み出てきて、ディスプレイ自体も映像・イメージのように物量性が差し引かれる」ということでは”ない”。そうではなく、それらはその機能において、時計が映像であるように、それ自体の物理的特性が「軽んじられる」のだ。この節約された物理的特性を、谷口は改めて加えつつ(光や揺れなど)、その表示される映像内容と同期させる。映像のなかのオットセイは糸で本を引くわけでもないし、映像の中の光と、ディスプレイの裏から漏れ出す光とは異なる。さてここで「同期」という表現には説明が必要で、たしかにそれはプログラム的に直接信号を変換させて同期しているのではない。だが、それは「同時に揺れる」「同時に光る」ように間接的・実質的に「プログラム=計画」されているという点で、存在論的な同期-予言関係をもっていると言ってよいだろう。いまや同期とは、(《夜の12時を過ぎてから〔…〕》を経由して、)電子的にプログラムされているかという話ではなく、認知を経由してどうふるまうことが約束されているか、という点に存する。
その意味で、ここでは物理的特性が意識されているが、「ディスプレイとその周囲の器機、またそれらのセットがもたらす現象」がある程度「イメージ=映像=時計」の性質を持つ以上は、《inter image》のバリエーションとして捉えてよいだろう。「イメージ-オブジェクト」ではないオブジェクトなどないのだ。谷口がディスプレイの物理的特性に関して行う操作は、ディスプレイがイメージ-オブジェクトとして、機能においてイメージに偏りがちであるのを引き戻すためのものと捉えてよい。そこでは一貫して、存在論的な隔たりを貫く関係-同期の問題がある。その同期におけるそれぞれの項の具体的な関係を「予言」、その全面化を「シミュレーション」と呼ぶ、というのが大まかな語法だろう。
さて、二つ目の結節点となるのが《思い過ごすものたち》のシリーズだ。ここで用いられる映像は「撮影-再生」の問題系を離れており、3DCGによる映像、メモ帳で表示される文字、(おそらくGoogleの)地図が扱われる。それらに共通するのは、それらは映像でありながら、なんらかの現象的時間において撮影構成されたものではないということだ。3DCGオブジェクトの動きは演算であり、情報的なものが「現象的な動き」としてヴィジュアライズされているのだ。それは上述した、オットセイの往復や時計の針が現象的時間を差し引かれたような問題系の延長にある。もはや「針の動き」において何らかの「時間」を(リ-)ヴィジュアライズしている時計とは異なり、そこで参照されているのは時間ではなくてあくまで純粋な情報である。情報はそれ自体無時間的であり、ただそれを読む方法がいくつか、現象学的にあるのみだ。その現象的なレベルにおいて、それは「打刻」として作用しうる。《思い過ごすものたち-A》の「たなびくティッシュの3DCG」は、どこかで現象的にたなびいているティッシュを撮影して再生したものではない。それは無時間的な3DCG空間で構成され、ある演算的な変化を現象上で与えられただけである。それに扇風機の風があたることで、風という物理現象があたかも因果しているように「見えるのだ」が、それは(直接的にも間接的にも)プログラム的に同期されておらず、因果が錯覚されているにすぎない(ここで「同期」と「因果」との語の使い分けに注意されたし)。むしろ因果しているのは、本当に揺れているiPad自体なのだ。ここで、「iPad=ディスプレイというオブジェクト-イメージ」と「そこに映っている映像」が存在論的な関係-プログラムを持っているわけではない。それらは機械的にただ「揺れているディスプレイが、たまたま、揺れるティッシュの映像を再生している」だけで、それらは「揺れている」という情報が通じているだけだ。このとき、われわれは「iPadと、映像のなかのティッシュとがそれぞれどのように揺れているか」を感知しているとはいいがたい。むしろ「どちらも、ともかく、揺れている」という情報を得る。さて、これらふたつの「揺れ」は「似ている」のだろうか。それは谷口が《jump from》への注釈において、「予言の内容と、予言された未来の出来事が”似ている”」ことを予言の前提としたことと同型の問題である。《jump from》の「A」「B」それぞれでのマリオのジャンプの位置・軌道はたしかに「現象的に、ディスプレイの上で似ている」が、むしろここで重視すべきは、いずれにせよ「マリオが、このポイント──ブロックの下、穴の手前など──飛んだ」という情報的なレベルでの一致ではなかろうか。じっさいプログラムのレベルでは、誤差を含めた領域がフラグに指定されているのだから、予言それ自体は情報的なレベルに存しているといえる(繰り返すが、存在論的な関係は論理的で、情報的なのだ)。「似ている」ことの位相はあくまでその誤差を認める作家側の裁量と、また同様に認める鑑賞者側にあるのだ。その意味で、《思い過ごすものたち-A》で、風-iPadの揺れと映像のなかの揺れは、「さして似てはいないかもしれない」が、「情報的に同じと見なせる」点で「同期」している。それはあくまで同期ではない、同期しているように見えるだけである、というのはもはや語法の問題であり、現象上での同期──「9時45分40秒で、こちらも、40秒だ」──と、プログラム的な同期──「何らかのプログラムで時計は一致している」──といずれかが同期の本質だと定めるのは、それらが相互に軸足となる時点でナンセンスであると《夜の12時を過ぎてから〔…〕》で示唆されたのだから。
《思い過ごすものたち-B》では、VOLVICの水がiPadの画面を流れるとそれに反応して文字がメモ帳アプリに入力され、ときおりそれは(おそらく事前に設定された)変換をされて「VOLVIC」になる。無秩序なアルファベットの中で、ときおりVOLVICという文字列が目立つ。これはAと異なり因果関係は成立しており、すべての文字は水によって入力されたものである。ここで注目すべきは「VOLVIC」という文字列の出現であり、つまりこの文字列だけが、「意味的」なのだ。意味とは無時間的である。言葉というものは、道具的に用いられる以上はその物質性を忘却されているが、玩具的に転がされるときには、ある音、ある線の塊という物質的性質を隠さない。水の刺激に応じて入力されるアルファベットは、人間が身体刺激によって出してしまう「喘ぎ声」のようなものであり、そこに意味はなく、現象的な性格が強いと言える。その文字-喘ぎ声は「その現象として提示されることそれ自体として意義がある」のだ。いっぽうVOLVICという名は指示関係が明らかだ。もはやそこで「水がどのように流れたか」に対する文字列の反映は失せ、ただ「流れているのは、VOLVICだ」という非現象的な情報のレベルで「同期」している。だが、「VOLVICの水をVOLVICと呼ぶ」のを、「同期」という時間的なイメージをもつ語彙で語っていいのだろうか。ここではマリオや揺れのような情報的な一致はあるが、時間的な性質は希薄ではなかろうか。
さて《思い過ごすものたち-C》は、地図アプリ上のコンパスが回転する磁石によって狂った動きを示し、同時にその磁石の磁力でiPadをつらぬいて接着しているクリップから糸で吊られた鉛筆が、同様に回転している。地図とはまさに情報である(その画面が航空写真モードにされているのは豊かなアイロニーである──それは写真だが、しかしそのサービスとしての特質において「かつて-そこに-あった」という性質を剥奪され、死んだ街のような、無時間的な様相を呈している。)が、ここでは物理的因果性はBよりも強く成立している。変換という非物理現象的あるいは恣-意-的な関係づけもない。
こうして一覧すると、《思い過ごすものたち》シリーズは、それらが並列されるということ自体において、物理的因果性の有無が宙吊りにされる。それぞれ因果にかんする性格はてんでばらばらで、むしろ共通するのは「映像をそれ自体で見たときの非現象性が、情報・機能をつうじて現象的世界のものごとを関係している」ことであり、つまり、そこに付随する現象──風と揺れ、流水、鉛筆の回転──によって、映像のその非現象的でしかない動きが「なんらかの現象的時間に拠っているかのように」見える。それは、「二つの存在論的に隔たった時間を、プログラムが存在論的に関係づけているのが、現象的に認知される」というここまでの文法の逆転であり、「現象的に、存在論的な関係づけのような類似関係が認知されるとき、その物理的現象が起きているわたしたちの時間とは存在論的に隔たった時間のようなものが錯覚される」という仕組みだ。それは筒井康隆『虚人たち』の空白ページにも見られるような仕組みとも言える。
この仕掛けがとくに、ささやかだが意味内容をもつ3DCGにおいて、そのなかの空間に時間が流れているような感覚に結実する。結局無秩序な文字列と名指しでしかなく、ささいなフィクション的内容ももてないような《B》では、「まるでiPadがVOLVIC、VOLVICと喃語から言語を獲得しているようだ」という物語を外部から読み込まないかぎりは、強い時間性はなかなか生まれないだろう(これは想像力として面白いモチーフだが、ここでは措く)。また《C》の地図もまた空間をともなうフィクション性を読み込みづらい(それが3D表示だったり、あるいはストリートビュー上を移動していたら、もう少しそこに時間性を錯覚できるかもしれない)。そうして、その後の作品《物的証拠》《スキンケア》では、《A》を受け継いだ3DCGが、時間の容れ-物-候補として主要なメディウムとして利用されるのである。
《物的証拠》はその意味で、《夜なのに日食》の映像があらためて「無時間化」されたものとみなしていいだろう。鍵が飛び回る3DCGの映像と、その音声を経由したある「プログラム」によって、実際の灰皿の上で小さな金属片が跳ねて音を鳴らしている。類似関係だけが与えられることで、それが存在論的なものと錯覚され、ひいては本来無時間的な映像にも時間が読み込まれる。「そうした、ディスプレイに映る映像が、記録された過去であることをやめた状態が『物的証拠』でも続いている。これは、原因と結果の因果関係を問題にした作品だが、原因の側をシミュレーションとして捉え、因果関係を偽装というか怪しくすることを考えていた」という谷口『超・いま・ここ』の記述は、「シミュレーション」=全面化された予言として「捉え」「偽装」という語法が、そこに認知の転倒を準備していることを心得ている。「計算やシミュレーションという再現可能で無時間的な出来事が、痕跡として『物的証拠』を残してしまうような状態」という記述もまた、「痕跡として残して-しまう」というような語法が、「結果的に痕跡として機能する」というニュアンスを裏側にもっているだろう。
《スキンケア-透明感》はやや複雑で、メッシュとテクスチャという二つの情報から3DCGが構成されるということを利用している。お菓子などの箱を積み上げたものを3Dスキャンして生成したメッシュとテクスチャのうち、テクスチャだけを差し替える。なにに差し替えるかというと、それを大きく印刷したものを撮影するカメラのリアルタイム映像だ。そのカメラがそのテクスチャのプリントを問題なく映しているかぎり、画面に表示される3Dオブジェクトは、もともとの箱をスキャンしたものどおりに見えるのだが、テクスチャ画像のプリントの前を人が通りがかったりすると、その人の影に覆われたままのテクスチャとして3Dオブジェクトにリアルタイムに適用・反映される。人が過ぎ去るともとにもどる。
谷口『超・いま・ここ』はこのプリントされたテクスチャ画像を「予言」と呼ぶ。「過去に記録されたものが保存され、レンダリングされるのを待ちつづける『予言』」と谷口は記述するが、つまりここで無時間的な関係づけ=予言として扱うのは「レンダリング」という演算プログラム-情報である。関係づけられる片方の現象は「過去に記録されたもの」としてのそのテクスチャなのだが、それは静的な写真であり、かつ《思い過ごすものたち-C》のようにその「テクスチャ」という特質上時間的な性格は剥奪されている。関係づけられる他方は3DCGのメッシュだが、これも無時間的な情報であり、いまや現象的な時間は、カメラによるリアルタイムの撮影しか残っていない。人が通るとそれがレンダリングされる。ここではもう「予言」「過去」という語は時間的な性格がいくぶん弱まり、むしろ構成的な事象を指す語彙として用いられているだろう。それは「なんらかの、ひとつの現象的時間」である。カメラの前を誰かが通りかかるということによって明らかになる、ひとつの現象的時間が、レンダリングされてメッシュに適用される。そうして、ささやかに時間が、3Dオブジェクトにあらわれる。これは《思い過ごすものたち》および《物的証拠》の問題のかたちの応用だ。無時間的画像(の撮影)-無時間的メッシュという、情報的関係の両極が、カメラの前をふと人が通ることで、ある現象的時間の映像-無時間的メッシュとなり、錯覚的に後者にささやかに時間をもたらす。眼目はそうした仕掛けよりも(じっさい、時間的な主題の印象は《jump from》などよりはるかに後景化している──画像テクスチャは「パースペクティブ」をもたないゆえに、時間をもたない)、そのようなふたつの現象の関係づけが実演される界面として「ディスプレイ」を捉えることで、谷口は3Dオブジェクトの表面の起伏を「ディスプレイ」とみなしていることだ。「この時、時間と空間は、3Dデータ表面の起伏を基準にして、前後/隣接関係が離散化した状態で貼り付き、リアルタイムな入力に対し、逐次の計算が行われることで表示され、現在を演じる。」(『超・いま・ここ』)
以上の問題系は、会場質問のときに大岩が訊いた内容の展開である。ディスプレイが、異なる時間どうしの存在論的な界面になるというデューリング的な構図は、Houxo Queの応答にもあらわれていた。それぞれのディスプレイを界面とみなすことで、いかにそれら時間どうしがトポロジカルに構成されているのか、という問題はある。そこで、時間はもはや単線的でなく離散的な関係を保存されている、というのはその通りだが、しかしここで「事前/事後」という関係自体が破棄されているわけではないことに留意したい。たしかに離散的なプログラムとして、複数の時間は高い自由度をもって接続できるようになるが、しかしなおその制限として、非現象的なレベルで、「事前/事後」という概念は、ある種の切断線として、時間どうしのトポロジーを条件づけるのである。