山内祥太《恐怖の回り道》*1の、吹き替えと、誰を信じられるのかという問題。声と発声者(の口)との関係は、目で見た情報と耳で聞いた情報との関係であって、たとえばB級映画では、タイミングや口の開き具合、また体格と声質の水準まで含んだ「演技と編集」*2がなっていないために、声が人物から浮いて聞こえる。
だがそもそも吹き替えが合っている/いないというのがそうした錯覚の程度の問題でしかないならば(ホットペッパーCM*3、アニメーション)、本人の声(役者本人が、自身を一度撮影した映像にアフレコするのはままある)、すなわちその場で録音された指標性をもつものさえも、結局は同型の錯覚でしかない。自分の声phonē*4でないかぎり(そうであっても)、人が喋っているというのは錯覚なのだ、映画に限らず実際の声さえも(いっこく堂*5)。映像のなかの山内にアフレコされた声自体、山内の肉声の録音が充ててあるのかわからないし、その出処は獏として知れない。ただそう見えるように機能しているばかりだ。
そうした意味で、視覚がつねに支配的な役割を背負う錯覚には簒奪できないところに、〈画面外〉は非-否定的に*6露わになってくる。それは人間が複数の感覚器官を並走させることに存する「ずれてゆく諸細部Detail」*7の顕現でもあって、結局何を信じればいいのか、はプラグマティシティック*8な位相に限る問題だ。そのさなかで、ヒッチハイカーという怪しげな男の、なお怪しげな冒険譚を信じるのか、あるいは、彼の話に出てきた願い玉の出現なる眉唾を、窓の外の男が渡してくるビールとチョコを、奇妙に形が崩壊した無言の女性を信じるのか。なにせそれらはつねに〈画面外〉を自己演出する効果でしかないのだから。
だが山内のインスタレーションにおいて画面外というのは、あちら/こちらと単純に二項化されているのではなく、二つの画面どうしがお互いに(スクリーンごと離されて)「外」であること*9、さらにわれわれもまたその関係の外に(車の"中"に?)着席していること、といったように折り合わされている。
存在への信の根源的な錯覚性を、さまざまに分裂した映像要素どうしの現象的な効果によって強調されているからこそ、二つの画面にたいしてメタな視点をわたしたちは〈むしろ持つ(しかない)がゆえに、錯覚にとらわれている──同じ穴の狢〉ということがまざまざと提示される。それはメタフィクショナルというより、見ている=読んでいるというそのことによって駆動される現象的錯覚がフィクション自体の動力になっている、パラフィクショナル*10な運動だ。最後の二つのカメラが出くわすシーンに至っても、その現象的一致を回り道して、錯覚自体の(ないし、この錯-覚という語に込められたミニマルな撞着の)トポロジーを見つめることになる。