役者の物質性

和牛「オネエと合コン」、チェルフィッチュ「三月の5日間」、シベリア少女鉄道「今、僕たちに出来る事。あと、出来ない事」についての覚え書き

updated: 2018.5.14

お笑いコンビ・和牛(水田信二・川西賢志郎)は、2006年に結成されたお笑いコンビで、2014年「上方漫才コンテスト」優勝、2015年・2016年・2017年の漫才コンテスト番組「M-1」決勝進出、うち後二年は準優勝を果たしている。ネタでは主に水田がボケ、川西がツッコミを担当する。漫才のなかでボケの水田があるシチュエーションを提案し、川西がそれに付き合う「コント漫才」をおこなうのが通例である。
和牛のネタは、両者の卓越した演技力にささえられたキャラクターたちのやり取りが眼目だが、その中でもコント漫才「オネエと合コン」*1は、〈演じること〉をその重要なファクターとしてもち、二人四役という構成もあいまって、異質な感触のあるコント漫才である。その演出は、和牛の作風、ひいてはコント漫才という形式、現代演劇にも敷衍できる〈演じること〉の問題を体現している。

「オネエと合コン」と〈役者の物質性〉

「オネエと合コン」の構成を以下に記す。

まず、水田・川西両者が登場する。舞台裏から出てくるか板付きかはネタの内容に関わらない。「どうも、和牛です」と挨拶をしてからネタが始まる。
まず水田が、自分が「オネエ(ホモセクシュアル)」の男性にモテるということ、そして芸能界で成功するためには枕営業をしなければいけないというクリシェを話し、すなわち水田(と川西)はオネエの男性プロデューサーに迫られかねない、という仮説を掲げる。この時点で川西は水田の身体的特徴を挙げ、水田がオネエの男性にモテることを納得する。その後、水田は「合コンで迫られるシチュエーションの練習をしたい」と言って、おもむろにオネエ「ローズ」役を始める──「水田さん早く来ないかなぁ」。

このように、冒頭の枕にあたるパートでシチュエーションや特定の職業を掲げてから、「練習をする」という名目でコントに入る構成がコント漫才の典型である。和牛の多くのネタも多分に漏れず、たとえば2017年M-1で披露された「ウェディングプランナー」も、ウェディングプランナーの練習をする、という趣旨のコント漫才である。
だがここで注目すべきは、水田・川西がそれぞれの演じる役との対応である。水田がここで演じはじめたオネエのプロデューサー「ローズ」は、「水田」を待っているのだ。すなわち、水田は自分自身役を演じるのではなく、「水田」を口説こうとする「ローズ」をまず演じている。

一人でコントを開始し、「ローズ」役を演じる水田を横目に、「どうやらオネエを演じているようだ」と、川西は半ばツッコむように実況する。

この時点でまだ川西はコントの役を演じておらず、登場時のステータスを保っている。つまり、まだ「舞台に登場して、いままでマイクを前に掛け合っていた漫才師川西」のままなのだ。

水田演じる「ローズ」は自分の青ひげの処理を、「ねえ、どう、ヒヤシンス」と、横にいるもう一人のオネエの名前を呼ぶ。ここで川西は自らに与えられたオネエの役名が「ヒヤシンス」であることを知り、「ヒヤシンス……」と虚を突かれたように繰り返す。その後も「ねえ、どう、ヒヤシンス」と執拗に繰り返す水田にたいして川西は「えっ……」と困惑するも、少し逡巡したあと、「〔青く〕なってないよぉ~」と、意を決したようにヒヤシンス役を演じ始める。ここで笑いが起きる。

このように、水田が勝手に始めたコントに参加することに川西が逡巡する姿が笑いを誘う例は、前述の「ウェディングプランナー」でも見られる。先んじてプランナー役を演じ始めた水田に「新婦のミユキ様ですね?」と呼びかけられ、「ミユキ……」とここでも虚を突かれたように一度繰り返す。意も介さず「新郎さまが忙しくて来れないみたいですね」と演技を続ける水田をまえに逡巡の表情を少々の間で見せてから、「〔新郎は〕仕事ばっかりしてるんですぅ~」と乗っかって新婦役を演じ始める。この逡巡・困惑の間で笑いを誘う演出は和牛に典型的なものだ。
「オネエと合コン」に戻る。

水田・川西演じる「ローズ」「ヒヤシンス」のやりとりのあと、水田=ローズが「来てくれた」と先の方を指差す。川西も「良かった、〔「水田」が〕来てくれたね」と返すが、水田は「相方の川西さんも来てくれた」と言う。ここで、このコントでは「ローズ」に口説かれる「水田」だけではなく、「川西」も登場することがわかる。自身役の出現に、再び川西は逡巡の表情を見せ、笑いが起こる。ふたたびの逡巡の間のあと、「コンビで来てくれたねぇ~。私〔「川西」のこと〕好きだから……」と、川西はヒヤシンス役に復帰する。
その後「ローズ」「ヒヤシンス」はそれぞれ「水田」「川西」の好きなポイントを挙げる。前者は胸板、後者は手の血管と、双方とも身体的特徴を挙げる。すると水田=「ローズ」は「なにそれ〔「川西」の手の血管がセクシーだということ〕知らない」と返し、川西=「ヒヤシンス」は「セクシーなの」と主張する。
さらに水田=「ローズ」が「水田」の料理上手を褒めたあと、川西=「ヒヤシンス」が「川西」の釣り趣味を褒める。ここでも「知らない/そうなの」というやりとりはさらに誇張されて繰り返される。「なにそれ〔「川西」の釣り趣味なんて〕知らないわ」と繰り返す水田=「ローズ」にたいし、川西=「ヒヤシンス」は小芝居をしながら釣りの様子を説明する。その釣りの描写の細かさに「なにあなた釣り行ったことあるの」と「ローズ」が返すと、川西=「ヒヤシンス」は、ばつが悪いように「いやないけど」と返す。

さてここで注目すべきは、「ローズ」と「ヒヤシンス」によって話題に挙げられる水田・川西の身体的特徴プライベートな趣味である。それは演じている漫才師水田・川西の実際の属性であるように想像される。なぜなら、彼らの趣味について熱っぽく語る「ローズ」「ヒヤシンス」は、ほかならぬ水田・川西本人が演じているからだ。つまり彼らはオネエ役を通して、みずからの特徴や趣味を褒めそやしている。水田=「ローズ」が「なにそれ知らない」と口を挟むのは、それが川西本人しか知り得ない情報であることを強調し、そのマニアックな川西の情報を川西本人がチャームポイントとして挙げている滑稽さで笑いをとるための演出である。川西が自分の釣り趣味にかんして事細かに語るとき、それは役のうえでは「ヒヤシンス」の口調や立ち位置を保っていても、川西本人がそこに浮き出てしまっている
この、演じる役(ヒヤシンス)と、演じる本人(川西)との距離が表出するさまを、〈役者の物質性〉と名付けよう。役者は、事も無げに役を演じているときは、それがあくまで役者であることは忘却されて、物語の登場人物そのものが居るように感じられる。そこでは役者という物質は透明だ。だが、あるケースでは、その透明さが薄れることがある。たとえば、役者の身体的特徴そのものに触れる瞬間。このネタでは、「胸板」「手の血管」がそうだ。また、役者の個人的情報が引っ張り出される瞬間。架空の物語のなかに完全に還元されないそうした要素が話題にあがることで、今目の前で起きているコント・劇は、けっしてニュートラルな存在ではない役者によって演じられているのだ、という〈役者の物質性〉が浮き彫りになる。
さて、ではなぜその〈役者の物質性〉が面白いのか。それには川西の「逡巡」が関係している。先に述べたように、川西の逡巡・困惑の間は和牛が頻用する笑いの種である。川西は、コントの設定を飲み込もうとして躊躇するさいに、困惑の表情を見せる。まさにそれは〈役者の物質性〉だ。乗るべきか、乗らざるべきか、それが問題だ──川西は和牛のネタにおいて、「コントを演じることに抵抗感を残す」存在としてキャラクターづけられている。だから、ヒヤシンスの言動に、それは川西本人が抵抗感を感じながら演じているのだ、と透けて見えるとき、そう〈わかる〉からこそ、観客は川西の隠された感情を推量して、知的な面白さを得る。
その点で、和牛が「コント漫才」という形式を選択しているのは賢明である。いわゆる通常の「コント」は、舞台がひらけたときから役は始まっている。「コント」には、はじめに漫才師として登場し、シチュエーションが提示され、練習で演じてみようか、というくだりがないのだ。たいしてコント漫才は、かならず「漫才師がキャラクターを演じる」という二重性を孕んだ形式である。そして和牛のコント漫才は、川西の〈役者の物質性〉がきしむ瞬間を、笑いを引き出すひとつの重要素としている。

ニ人四役と川西の孤立

あらすじに戻ろう。

「ローズ」と「ヒヤシンス」のそうしたやりとりのあと、水田の演技は「ローズ」から「水田」役へ突然切り替わり、立ち位置を変えて「どうも、和牛の水田です」と、オネエ役の高い声・テンションからうってかわって低い声・テンションで返す。その突然の切り替わりに川西は困惑し、せりふこそないが、首の動きや体のこわばりは、「ヒヤシンス」役から川西本人へ戻ってしまう。そして繕うように立ち位置を移動し、「川西です」と自己紹介する「川西」役にやおら演技を切り替える。

つまりこのコント漫才は、水田・川西がそれぞれ「ローズ」と「水田」、「ヒヤシンス」と「川西」を演じる、二人四役漫才なのだ。よって必然的に役の切り替えが舞台上で発生する。スムーズに行なった水田にたいして、それを追うようにぎこちなく川西が役を切り替えるとき、ふたたび〈役者の物質性〉が析出する。
そもそも〈役者の物質性〉とは、役と役者とのあいだにあるずれである。役者は役を演じるのであって、役そのものになるのではない。もしくは「役になる」というのは比喩表現にすぎない。それでは「本人役」という構造が説明できない。「川西は川西になる」のではない。「役者川西は川西本人役を演じる」。〈役者/役〉とはそれぞれ〈演じるもの/演じられるもの〉であり、存在のしかたからして異なっている。この役者と役とのあいだの原理的で必然的なずれが、〈役者の物質性〉を舞台に残すのだ。多くの演劇で見られる「一人一役」、またよく語られる「役になりきって演技する」「憑依して演技する」などといった演技論は、役=役者という、本来はありえない等号/統合を錯覚させるための比喩である。
「オネエと合コン」のように、役者本人役が劇中にあらわれるとき、また役者と役の数が合わないために切り替えが必然的に行なわれるとき、〈役者の物質性〉はあらわになる。

以降、水田が「水田/ローズ」を切り替えるのをなんとか追うように、川西は「ヒヤシンス/川西」役を切り替える。そのなんとか追いつこうとしてめまぐるしく切り替えるのが、水田と違って「ぎこちない」ことが、また笑いを誘う。
水田の役の切り替えは、声の演技と立ち位置(向き)によって行なわれている。向かって左を向いているときは「ローズ」役、右を向いているときは「水田」役だ*2。川西=「ヒヤシンス」は水田=「ローズ」にたいして向かって右側に立っているので、水田=「ローズ」が「いやぁ~もう~」と照れて川西=「ヒヤシンス」のいる右方を向いてそのまま「水田」役に切り替わるとき、川西はまたその切り替えに追っつかず、ぎこちなく「川西」役のポジションに移る。ここでも笑いが起こる。

このように、水田に翻弄された川西が〈役者の物質性〉を露出させてしまう瞬間が笑いの起きるポイントになっていることがわかるだろう。先んじて言ってしまえば、「オネエと合コン」は、和牛のネタのなかでも特に、川西という役者の〈物質性〉に焦点を当てたコント漫才なのだ。

「水田」に促され、「川西」が、「ローズ」と「ヒヤシンス」どっちが魅力的か聞かれる場面で、「川西」は「ヒヤシンス」を選ぶ。

ここでは、自分の生み出した、かつ自分を口説くという設定のキャラクターのほうを結局選んでしまう、という複雑な心情を観客は推測し、笑う。この複雑な心情は、登場人物「川西」役のものではなく、演じる「川西」本人のものだ。川西役のなかに、演じている川西本人が透けて見える。自身役を口説いたり、役を切り替えたりするだけでなく、本人役を演じているときにもこうして〈役者の物質性〉は露出するのだ。
その後は水田を中心にしたやりとりが続き、川西は進行役に回るが、その後に、このコント漫才のなかで白眉といえる展開がある。

やりとりの後、水田=「ローズ」は、「お手洗い行ってくるね」と言って舞台から捌けてしまう。すると川西は、水田の切り替えに合わせて自分の役を切り替えて決めることができなくなり、所在なさげに舞台に立ち尽くす。ここで大きな笑いが起きる。

ここまで川西は、翻弄されながらも水田の演技や立ち位置を追いながら、二役をこなしてきた。つまり水田は、「水田と川西」「ローズとヒヤシンス」とを切り替えるスイッチを担っていたのだ。その水田が捌けてしまうことで、川西はハンドルを失い、つまり自分の意志でどちらの役を演じてコント=物語を続けるかの岐路に立たされる。だがそもそも川西にはどちらを演じる動機もない(そもそも水田に付き合わされた練習なのだから)。ゆえに舞台上には、二つの役のあいだで宙づりになった川西本人という役者、まさに〈役者の物質性〉が最もあらわになるのだ。役を見失った役者がなお舞台に立っている、と要約すれば、その異様な状況は明らかだろう。媒介するべき役・物語を失ったその身体はもはや物質でしかない。
ここで注目すべきは、川西は「なんで捌けるねん!」と突っ込まないところだ。もしそう突っ込むならば、二つの役を放棄して、漫才師川西本人に戻るということ、役を演じるという構造自体を放棄することになる。もはや何も演じないとなれば、〈役者の物質性〉も同時に消え去る。じっさいそうしても笑いは起きるだろうが、和牛はあえてその選択をせず、川西をコント世界に閉じ込め続ける。ところで和牛の他のコント漫才において川西がつっこむときも、彼は物語の外には出ない。コントの役のままつっこむのだ。それは和牛自身が、ネタの要点に「演じる」という仕組みを自覚しているゆえであろう。

水田が捌けて10秒ほどの沈黙・困惑のあと、恐る恐る川西はまず「ヒヤシンス」役として、「お手洗い行ったねぇ~」と話しだす。だが「水田」を演じるべき水田もいないので、その会話を受け取るのは必然的に「川西」になる。それを自覚して、川西=「ヒヤシンス」は続けて、「川西さん、釣り好きなんですよね」とおずおずと話を振る。川西はぎこちなく立ち位置を変えて、「川西」役としてそれに応える。この一連の逡巡のぎこちなさがずっと笑いを誘う。

冒頭の、逡巡しながら役に入り込む川西のようすがここで過剰に繰り返されるようなものだ。水田に付き合うぶんにはその役を始めてしまえばよいが、いまでは物語の進行を担うのも川西であるため、「川西/ヒヤシンス」を演じるべきなのか、演じ続けるべきなのか、演じ切り替えるべきなのか、すべての場面において彼の〈物質性〉は露出しつづける。
「川西」が釣りの薀蓄話をし始めるときも笑いが起きる。そこで観客は、さきほどの「ヒヤシンス」役としてのやりとりを明らかに思い出して反復している役者川西本人を見るのだ。川西という役者自身に今さっき蓄積された記憶、という〈役者の物質性〉が露わになる。
水田=「ローズ」が一度戻ってきてから、化粧ポーチを忘れたといって再び捌けようとするのを川西=「ヒヤシンス」が必死に止める場面でも、再び川西の〈役者の物質性〉が露わになる。

その後合コンはお開きになり、「水田」と「ローズ」、「川西」と「ヒヤシンス」はそれぞれペアになって帰る。舞台上では左側と右側とに水田・川西が別れる。ここでも川西は、その掛け合いを表現するために一人でぎこちなく役を切り替え続けるのだが、帰り道というより性的な含意が含まれたシチュエーションなので、笑いもひとしお起きる。
その後はベタなスラップスティック風のやりとりがあり、水田が川西の手の血管を見てホテルに誘う、というところで川西が「なんでお前が誘ってくんねん。もうええわ」とつっこみ、漫才は終わる。

以上のように、「オネエと合コン」には、要所要所で川西の〈役者の物質性〉を露呈させて笑いをとる演出がある。以下にまとめよう。

  • 水田に付き合って演じるべきか、という逡巡
  • 自身の身体的特徴を褒める
  • 二役を切り替えるさいのぎこちなさ
  • 水田が捌けて二役を切り替えられない戸惑い
  • さきほど別キャラクターとして演じた内容を思い出しながらの再演

〈役者の物質性〉は、ある人物があるキャラクターを演じているという構造にかならず見いだされうるものであり、そこで演じられている物語には帰せられない。あくまでコントの外、漫才の内にあるものだ。和牛のコント漫才はこの二重性を活用している。

『三月の5日間』

ここで二つの現代演劇作品を引き合いにだす。
劇団チェルフィッチュ(主宰:岡田利規)の2004年の作品『三月の5日間』(作・演出:岡田利規)*3は、役と役者が流動的に入れ替わるような演出がなされている。本作は、イラク戦争の最中ずっと渋谷のラブホテルで5日間泊まり込んでいた「ミノベくん」と「ユッキー」の話を、本人や、本人からその話を聞いた友人、あるいはナレーターが語るというものである。そして、ミノベ役・友人役・ナレーター役がそれぞれ決まった役者に割り当てられているのではなく、場ごとに異なる役者が演じる。つまり、役と役者との関係が流動的なのだ。批評家の佐々木敦は本作についてこう説明している。

 〔…〕この芝居では、俳優と役柄が、一対一対応に、ほとんどなっていない。どういうことかというと、たとえばここで「男優1」は、「ミノベって男の話」を始めるわけだが、話している内に、いつのまにか「ミノベ」その人になってしまう。そして「ミノベ」としてとつぜん「男優2」に話し掛ける。だがこのあとで、また「男優1」として「観客」に語りもする。これだけでなく、この作品においては、誰かが誰かのことを語っているうちに(それは直接聞いた話だったり、伝聞であったりもする)誰かと誰かの区別がつかなくなり、しかもそれが更に違う誰かに転移していったりする。つまり複数の『演じる者』と『演じられる者』そして『語る者』と『語られる者』とが分離されて、交換されたり移動したりを繰り返してゆくのである。*4

『三月の5日間』は、一人の役者が複数の役を担うだけでなく、同じ一つの役を、場ごとに別の役者が担うこともある点で「オネエと合コン」とは異なる。とはいえ、役者と役とが切断・再接続されるさいの〈役者の物質性〉は共通している。『三月の5日間』ではそうした〈役者の物質性〉はあまり笑いにつなげられることもなく、むしろそれは一連の語りのなかで見えなくなっていく。複数の役者が複数の役を流動的に演じているのに、その違和感、物質性が見えなくなっていく、そうした逆説的な効果のために、むしろ役者という身体=物質が用いられている、つまり演劇であることの必然性があると言ってもよいだろう。
『三月の5日間』の、話者とその話者を演じる役者が切り替わる一連の語りがなお自然に感じられるのは、その話が回想の伝聞、あるいは伝聞の回想であったり、またナレーターという存在が挟まるからだ。冒頭はこう始まる。1Aはこの場での役者を振り分ける記号。

1A それじゃ「三月の5日間」ってのをはじめようと思うんですけど、5日間のまずその第一日目ですけど、あ、これは二〇〇三年の三月の話なんですけど、朝起きたら、あ、これはミノベくんって人の話なんですけど、ホテルだったんですね朝起きたら、あれなんでホテルにいるんだ俺って思ったんですけど、しかも隣に誰だよこいつ知らねえって女がなんか寝てるよって思ったんですけど、〔…〕*5

以降もだらだらとした語りが続いてゆき、突然1Aは「ミノベくんの話をする者」から「ミノベくん」本人に変わる。さて、ここで「ミノベくんの話をする者」という存在は二通り考えられる。物語のなかの友人か、あるいは物語のなかにはいないナレーターだ。しかし、「それじゃ「三月の5日間」ってのをはじめようと思うんですけど、」と口火を切る点では1Aはナレーターである。
佐々木は本作(そして以降の作品)で岡田が試みている実験について、「舞台上の人物が『アクター』『ナレーター』『キャラクター』の三つの位相を自在に行き来すること」とまとめている*6。平たく言えば「アクター」とは役者、「キャラクター」とは登場人物のことだが、ここで肝要なのは「ナレーター」である。佐々木は、『三月の5日間』は「演じられている、というよりも、物語られている」ものとみなす。つまり、誰かが誰かを演じるという構造より、ともかく誰かしらによって物語られている、ナレーションされているということこそ『三月の5日間』の骨子であるとみなすのだ。

〔…〕岡田が舞台『三月の5日間』でやってのけたのは、まず第一に、従来は分かち難く(そして特に疑問に附されることもなく)結びついていた『アクター(=俳優)』と『キャラクター(=登場人物)』を切り離し、組み替え可能にしたこと、そして第二に『アクター』に『ナレーター(=話者)』という機能を付与したこと、もしくは『アクター』にあらかじめ潜在していた『ナレーター』としての属性を切り出して増幅してみせたこと、である。〔…〕実際、複数の俳優が入れ替わり立ち替わり『誰かの話を語る私』と『私の話を語る誰か』をややこしく(だがややこしくはなく}循環/交換しながら展開してゆく『三月の5日間』は、演じられている、というよりも、物語られている、といった方が、実態に近い。『誰かの話を語る私』『私の話を語る誰か』から『誰か』と『私』を抜くことで得られる『~の話を語る』という文型の行為こそ、そこで為されていることである。ナラティヴの前景化。*7

そこでは、語る誰か、よりも、語る行為のほうが前景化するゆえに、その語る役者の身体性は相対的に前景化しづらくなっている。あるいは、語っているという共通行為によって、役者は均質化されているともいえる。じっさい、同じ役を演じる別の役者が、あくまで別人であるという物質的な違いに注目することは、そう意識すれば可能だろう。だがそれは均質化する(戯曲では役者は場ごとに1A、1B、1C……といった交換可能な記号で振り分けられる)という形式があってはじめて可能になる検討だ。『三月の5日間』は演者より話者に注目した作品である*8
さて「オネエと合コン」に戻れば、反対にこのコント漫才が「演者」に注目した作品であることがわかるだろう。先述したように、川西はコントの最中つっこむときに、漫才師川西本人に戻ることはない。水田が捌けているという絶好のチャンスでも、だ。逆に露出するのは、役者としての物質性である。これらはそれぞれナレーター/アクターに対応する。後者がアクターなのは明白だが、ではなぜ漫才師はナレーターなのか。漫才師はコントという演じられる物語のあくまで外側にいる。冒頭、水田だけが役を演じていて川西はまだ参加していないときの「オネエをやってるのかな、これは」「ローズていうオネエ系の人ね」と実況するさまはまさにナレーターである。和牛においてナレーターは、冒頭(とオチ)にしか出現しない。コントのなかではナレーターを排除し、「アクター/キャラクター」という二項の緊張だけで構成するのだ。よって『三月の5日間』ではアクターが演じるナレーターやキャラクターが切り替わるとき、「とか言って」「っていう」「ほらこうやって」というフレーズが挟まったり、あるいは意図的にそうした言動を実況・引用するフレーズを欠落させた文を用いる。キャラクターの切り替えにおいて、それらに共通する「ナレーション性」を活用しているのだ。これこそが佐々木の指摘した、「『誰かの話を語る私』『私の話を語る誰か』から『誰か』と『私』を抜くことで得られる『~の話を語る』という文型の行為」である。
たいして「オネエと合コン」ではその「誰か」が抜かれることはない。「ローズ」「川西」は事ある毎に、彼らを演じている川西本人という役者を析出させてしまう。佐々木は『三月の5日間』の小説版について、小説というメディアにはアクター=俳優にあたるものがないために「話者の転換」という別のシステムを強調すると指摘するが、その詳細はここでは措く*9。重要なのはむしろ、アクターが(小説と比して)演劇に固有のものであるということだ*10。コント漫才は先述したように、「はじめに漫才師として登場し、シチュエーションが提示され、練習で演じてみようか、というくだり」をもつ、コントの演劇性を自覚した形式なのだ。アクターがそのまま出現する(といっても彼らもネタ台本に描かれたキャラクターでもあるのだが)冒頭、漫才師が漫才師として話すパートが、アクターの物質性を誇張して笑いをとる和牛にとっては重要である

『今、僕たちに出来る事。あと、出来ない事。』

劇団シベリア少女鉄道(主宰:土屋亮一)が2001年に初演し、2018年に再演した作品『今、僕たちに出来る事。あと、出来ない事。』(作・演出:土屋亮一)もまた、役者と役とのずれが役者の物質性を露呈させる演出をしている*11。本作はその露呈が笑いにつながるという点で「オネエと合コン」に近い作品だろう。
本作は、「完璧に演劇を演出することの不可能を妥協する」ことをテーマにしている。
メインの登場人物は、高校演劇部で作・演出を務める女生徒「廣瀬」と、かつて映画を撮っていたときにこだわりのせいで周囲から浮き、それからは妥協を重視するようになった新任教師「鳥居」だ。舞台は2018年。彼女の熱意は認めつつも、無茶な演出や舞台装置を諌め、実現のためには妥協が必要だと諭す鳥居。部員の事故、そして死んだ妹の姿をみかけたことをきっかけに廣瀬は妥協に傾き、意気消沈する。物語はその後、じき地球に隕石が衝突するというSFと合流し、天文台の研究員である有田・遠藤が登場する。さらに舞台は未来へと移り、そこでは未来の鳥居と廣瀬、有田、遠藤がいる。有田によって遂行された隕石迎撃破壊作戦の裏の計画を知り、それをリセットするために時空の歪みから過去、2018年当時へタイムスリップする。さらには鳥居の生まれたより過去の時代や、廣瀬の妹が亡くなった当時へとタイムスリップする。
荒唐無稽なSF設定は措いても、ここで注目すべきは、ある人物Aが、過去の自分が生きている時代へタイムスリップするとき、そこには年齢は違えどAが二人いることになる。だが、編集技術をもちいて未来・過去のAを同一の役者が演じつつ同時に画面内に見せられる映像とはちがって*12演劇では、一人の役者が未来のAか過去のAか、どちらを演じるか決めなければならない。本作は『三月の5日間』のような、積極的に役者と役とが流動的に切り替わる前衛的な仕組みは採用していないため*13、必然的に、どちらかは別の役者が代演することになる。
本作の演出では、あきらかに顔を隠すための傘を使ったり、それでいて体格が似ても似つかぬものだったりという「安っぽさ=妥協」をこれ見よがしに演出することで笑いを誘っている。一度舞台に出てから、大急ぎで舞台裏で着替えて(騒音がわざとらしく響き渡る)再び出てきたり、不自然な暗転をはさんで倒れている自分と入れ替わったり、「演劇ではCGを使えない」ために妥協するしかない、という点はこれでもかと強調される*14。ホログラム変装や常人離れしたアクションは、役者の体で安っぽくそれらしく(もなく)妥協される。
さらにはクローン人間なども登場する。有田のクローンが三人登場するシーンでは、全員ずっと後ろ向きで、チープなウィッグをつけて「とりあえず有田ってことで」というさまを体現している。彼女のうち一人が振り向くシーンでは遠藤がこれ見よがしに移動して、その顔を観客席にたいして体で隠す。あるいは終盤にいくにつれて、各時代の登場人物が合流してしまうことで、役者自体も足りなくなり、人形や立て看板が登場し、声だけ放送で充てられるようになる。
終盤では役者六人に加え、人形が五体、立て看板が一台がそれぞれ「喋る」という珍妙な事態になり(等数になっているのも故意であろう)、各役が順に退場したあと残るのは、廣瀬の代演の立て看板と、途中から未来の鳥居の代演を担わされた男優のみである。前半、廣瀬と鳥居を長らく演じていた二人の役者がもはやおらず、どこから湧いて出たのかわからない〈妥協の役者〉だけが、一連の物語の掉尾を飾る。彼の妙にナルシスティックな演技はもはや鳥居のキャラクターとも食い違っている。
本作は、こうした「役者は身体が一つであるため、二役を同時に演じられない」という、至極当然な〈役者の物質性〉を題材に、演劇における〈妥協〉をテーマとする。役者にかかわらない点でも、舞台装置の安っぽさや、演出の質素さなどをその〈妥協〉の結果として見せつける演出は、役者のみならず〈演劇の物質性〉、それも物理的なだけでなく、その舞台装置は現代の科学で可能で、予算の範囲内で手に入る、安価なものしか採用できない、舞台にインストールできる程度のものでしかならない、という時空間的・経済的な物質性をもあらわしている。廣瀬が途中で語る、本物のライオンとカカシと外国人を起用した「オズの魔法使い」の劇、という挿話は、一切物質的妥協のない演劇というアレゴリカルな反対物だ。
とはいえ物語は、妥協する気持ちを克服するほうへ向かっていく。鳥居は廣瀬の徹底した熱意を応援するようになり、廣瀬は意気消沈から回復して、妹への未練を解消しにいく。鳥居と廣瀬は、最後まで物語を見届けるために残るのだ。立て看板と、どこの馬の骨かもしれぬ役者にすげ変わっても。物語が妥協しないために、演出が妥協してでも続けていく。今、僕たちに出来る事と出来ない事。この奇妙な背反がここでは一貫し、感動さえ生む。
演じるということとは、物質性に制限された妥協の産物である。いない役者は立て看板で「なんとか済ますmake-do」。自分も自分を口説くオネエ役も自らで「なんとか済ます(make-do)」。「ごっこ遊びmake-believe」──信じさせることの裏側には、つねに「なんとか済ます(make-do)」ことが張り付いている。いかなる観客の信beliefも、役者によって実際に(in deed)なされた物質的行為であるということ*15
ヒヤシンスの西洋での花言葉には「play」が含まれる。しばしば遊戯・遊び心と解されるが、むろん「play」には劇の意味もある。川西演じる「ヒヤシンス」は、川西が「川西」を口説くとき、川西でなくなることができないという〈物質性〉、劇playというものに起因する物質性を表現する遊び(play)であり、だが物質性とは、それさえあれば、たとい妥協があろうと劇がそこにあり、信じられる物語が、語りが行為(deed)に受肉しているという証左でもあるのだ。

  1. 和牛『和牛 漫才ライブ2017 ~全国ツアーの密着ドキュメントを添えて~』(2017, DVD, よしもとミュージックエンターテインメント)収録。「ローズとヒヤシンス」という題でテレビなどで披露されることもあり、本稿で言及する重要な要素はおおよそ共通している。
  2. 落語家の演じ分けに似ている。
  3. 佐々木敦, 2017, 『新しい小説のために』講談社, pp.159-160
  4. 岡田利規, 2017, 『三月の5日間 [リクエイエイテッド版]』, 白水社, p.6
  5. 佐々木, 同, p.160
  6. 佐々木, 同, pp.175-176
  7. いっぽう、山縣太一演出による『三月の5日間 [オリジナル版]』(2018年、インダハウス・プロジェクツNo.1企画、ベルリンセミナーハウス)は、役者の着用している眼鏡を奪い合ったり、壁に逆立ちしたり長台詞を言ったりしての身体的疲労にフォーカスしたり、また役(少女)と演者(飴屋法水、上演時56歳の白髪・白髭をたたえた男性)との乖離を用いたり、〈役者の物質性〉を活用した演出だったといえる。同時期に岡田の演出した『三月の5日間 [リクリエイテッド版]』では役者の年齢層はほぼ同じであり、たがいの身体に触れることも、舞台上で大きな運動をすることもなかった。
  8. 佐々木, 同は題のとおり小説論であり、岡田の別の小説作品『わたしの場所の複数」にもつながる「話者の転換」を論じる前段階として、舞台の『三月の5日間』の実験を紹介している。本論は深くは踏み込まない。
  9. 佐々木はアクター=俳優を、戯曲/上演、作者/観客のあいだの「一種の変換器=インターフェース」だと記述している(同, p.181)。
  10. 和牛『和牛 漫才ライブ2017 ~全国ツアーの密着ドキュメントを添えて~』(2017, DVD, よしもとミュージックエンターテインメント)収録。「ローズとヒヤシンス」という題でテレビなどで披露されることもあり、本稿で言及する重要な要素はおおよそ共通している。
  11. タイムスリップではないが、アピチャッポン・ウィーラセタクン監督『ブンミおじさんの森』の終盤では、同じ画面に同一の役者が二人出現するシーンがある。おそらく画面の真ん中で分断してデジタルでつなげたものである。あるいは現代ならCG・VFXをもちいて同じ役者を複数、同時に画面に出すことは可能である。さらにはアニメーションならばもとより造作ない。
  12. むしろそれは後述するように「物質的必要に迫られて」ぎこちなくなされる。一人の役者が、鳥居の旧友、鳥居の同僚、総理大臣、組織からの追手、AV監督、有田の父親などを次々演じる演出は、その短いスパンでの切り替わりゆえに、〈役者の使い回し〉という印象をもたらす。
  13. 冒頭、廣瀬から「香川照之を起用し、さらにCGで香川がドロドロに溶ける」などといった現実離れした演出が提案される。それ自体も滑稽な笑いを誘うが、役者が用意できない、という露骨な物質性を露わにした伏線である。
  14. ところで、和牛の川西の逡巡・困惑は、即興劇の文脈に位置づけられるだろう。もちろん和牛のネタはすべて台本通りに行なわれているのであり、そこで川西は実際に水田の暴走に戸惑っているのではなく、戸惑う表情を演じているにすぎない。だがそこで観客が受け取るのは、まさにいま川西が逡巡しているかのような表情である。2000・2010年代には、台本が十分用意されていない漫才やコントが、芸人の身体性=本人性を析出するような企画番組が多く見られた。以下例を挙げる。自称「台詞を覚えるのが苦手」なさまぁ~ずが、ゲストと一緒に10分の即興劇をリハーサルなしで行なう「さまぁ~ずハウス」(Amazon Prime, 極東電視台製作, 2018-)、笑福亭鶴瓶・中井美穂がゲスト俳優と、台本のない即興劇を演じる「鶴瓶のスジナシ!」(CBCテレビ, 1998-2014)、ゲストとのトークから、ふだんコンビを組んでいないどうしの芸人がその場で漫才を仕上げて披露する「イッテンモノ」(テレビ朝日, 2017-)、芸人の書き下ろしたネタを舞台・ドラマ俳優が演じる「笑×演」(テレビ朝日, 2017-2018)、制限時間内に、与えられた制約の中で観客を笑わせる「ウンナン極限ネタバトル! ザ・イロモネア 笑わせたら100万円」(TBS, 2008-2010)。