「Re/place」展とARタテカンについての覚え書き

展示形式の政治性

updated: 2019.6.3

2018年5月13日朝に、京都大学吉田キャンパス周囲に並んでいた立て看板(通称:タテカン)が撤去された*1。京都市が2017年10月に定めた、擁壁への屋外広告物の設置を禁じる景観条例にもとづいての大学側の判断だ。以降京都大学では、そうした措置に抗議する内容の看板が改めて立てられただけでなく、「立てていない」謂での《寝看板》や、あくまで看板ではない《立て缶》などが設置されるなど、ユーモアによる対応が見られ、SNSなどでも拡散されている*2
本稿では、こうした状況への二つの反応に注目したい。ひとつは、京都市立芸術大学の小野川耀心と大伴維則が、同月19日・20日に同大内のホワイトキューブで開催した、撤去された立て看板を借り受けて設置した企画展「Re/place」展である。企画者は立て看板を「原状回復が可能である優しい表現手段」「改変、継承をされてきた記憶装置(=コミュニティーアーカイブ)として自立したひとつの文化表現」とみなしており*3、すなわち、本展示は政治的条例によるその撤去を一種のヴァンダリズムとみなした批判的態度をもつ。
もうひとつは、同月20日にへいほー氏によってTwitter上で公開された、ARによって京大敷地内に立て看板を出現させる技術およびその記録動画である*4。氏がツイートに付したハッシュタグから、本稿では以降「ARタテカン」と呼ぶ。

動画からのスクリーンショット

本件は、〈物を公に見せる〉ことにおける(広義の)政治的な軋轢にまつわる事象である。比喩していえば、複数のOSの競合だ。京大キャンパス、ひいてはその擁壁という公的な場所は文字通りの〈境界線〉である。立て看板はたとい敷地内に置かれていても、その敷地の外側から見られうる。家の中での着替えが窓越しに見られ、そのうえ公然わいせつとして糾されさえしてしまうという逸話さえ思い出す。こうした軋轢は、地面にたいして垂直に分割された土地の所有権と、人間の視界が水平に伸びていく、という物理的な条件のあいだのものである。土地を自由にもちいる権利と、景観を保つ権利との競合ともいえる。
本稿では、2010年代に国内の美術館を舞台にしばしば発生した思想的な表現規制の問題*5には具体的に立ち入らない。だが、そこでしばしば引き合いに出される〈表現の自由〉といった語も、そもそもこうした複数のOSの競合、あるいは交渉の失敗と侵掠へのカウンターとして用いられるスローガンである。
ただし今回の京大立て看板撤去の理由は、その表現内容自体ではなく、それが置いてあることで景観を崩す、というものであり、この軋轢はより美学的・即物的な案件だといえる。

先に挙げた二つのアプローチはいずれも、こうした特定の政治的事由による侵掠を矢面に、芸術のコンセプチュアルな側面をもって批判する時空間的な実践といえる。
「Re/place」展はその名が示すとおり、「取り替える・後を継ぐ」というニュアンスとともに、いつでもそれを「戻せる」ようにする、という理念をもち*6、つまり侵掠された表現物が「一時避難する」ゾーンとしてギャラリーを利用しつつ、またミュージアムのような作品保管制度も示唆している。ただし、本来の問題である「擁壁=境界線」は一見ここでは後退している。立て看板がもともと立てかけられていた敷地擁壁は、上記のような複数のOSが競合する境界線自体を物質的に寓意するファクターであり、いっぽうフォーマットとしての〈展示〉は、それにアクセスしようとする鑑賞者、〈関係者〉にばかり開かれた制度でもある。
展示というフォーマットは、芸術の名のもとに特権化された条件をインストールしかねないという契機をはらんでいる。そうして特権化されたギャラリー空間は、はたして万人にオープンであっても、むしろ万人にオープンであるがゆえに、その政治性を脱色された、むしろ徹底的に非公共的な空間になりかねない。一時自律ゾーン(ハキム・ベイ)がむしろ、永久の、不帰の疎開になってしまうのだ。

美術作品が展示される空間の政治的なオープンネスの問題は、ニコラ・ブリオーの主著『関係性の美学』や、それへのクレア・ビショップによる批判「敵対と関係性の美学」が論じているが、本稿ではジャック・ランシエールに注目したい。著書『感性的なもののパルタージュ』でランシエールは、芸術の三つの体制を〈表象的体制〉〈倫理的体制〉〈美的体制〉の三つに分ける*7。前二つをそれぞれ、模倣を実行する領域を限定することで芸術の内的規範・ヒエラルキーへ発展するもの、イメージによって市民に教育をほどこし従事活動をうながすもの、として批判し、そうではない、作者・作品・鑑賞者のあいだの距離・異他性として芸術活動をとらえる〈美的体制〉を重視する。星野太の整理*8によれば、既存の支配・抑圧を転覆することでこそ芸術は政治学たりうるという態度は「表象的体制」にあたる。
もし、「Re/place」展における批判のポテンシャルを、あくまでそのコンセプション──立て看板を別の場所で展示する──の内にばかり見ていると、私たちは表象のうちにこの現象を囲い込み=疎開し、その「体制」に開かれた人々の論議へと脱政治化させてしまいかねない。むしろここで注目すべきは、「Re/place」展が行なわれたことによって発生した〈距離〉、鑑賞経験における宙づり、である。すなわち、京都大学から京都市立芸術大学へと、それら立て看板が物理的に移送され、かつ、鑑賞者もまた移動しなければそれらを見られない、ということだ。その距離を移動するさま、また移送があったことを体感することが、政治的軋轢の因果を鑑賞という形式によって体感する、その政治的な有効性となる*9
「芸術は、それがみずからの役割に対してとる距離によって、それが創設する時間と空間のタイプによって、そして時間と空間を切り分けるその仕方によって政治的だと言える」(ランシエール)*10。──〈展示〉とは、ある物品を、それ自体に内在していない時空間のなかにアレンジする形式である。ランシエールの主張はこうした「展示」という形式にこそ現代の美術の体制、また政治的可能性を見ている。

では「ARタテカン」がアレンジする時空間とはなにか。
2018年3月、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の、ジャクソン・ポロック作品を展示した部屋のなかでスマートフォンのARアプリケーション越しにCG作品を鑑賞する「Hello, we’re from the internet」展が、アーティストグループMoMARによってゲリラ的に開かれた*11。座標を指定してヴァーチャルに作品をデバイス越しに表示するため、MoMA側による阻止も難しかった。
その主旨は美術館制度・美術市場制度を批判するものであり、1990年代以来ネットアートが取り組んできた、現実空間の物理的占有や、物質性が担保する市場価値への批判の文脈に位置づけられるものである。クリスティアーネ・パウルはこうした、ネットアートがパブリックスペースから切り分けられた領域を提示することを「ゲットー化(ghettoization)」と呼ぶ*12
だが、ARをもちいた取り組みにかんしては、「ゲットー化」という表現はそぐわない。なぜなら「ゲットー」とはメイン通りからはずれた特定の集団のための居住地、ゾーニングされた領域を指す語である。サイバー空間が、現実空間から、物理的・政治的・経済的に分離されている「ゲットー」であるということが、ネットアートのもつ政治性であった。

いっぽうARにおいては、その空間が政治的に分離されている──サイバー空間の座標の占有権はどこにある?──にもかかわらず、物理的な鑑賞空間は〈重なってしまっている〉ことこそが眼目である。「ARタテカン」にせよ「Hello, we’re from the internet」にせよ、共通の物理空間のなかに、スマートフォン越しにAR空間を見る鑑賞者を召喚する機能がある。立て看板なき京大に来た人々と、AR越しに看板の復活した情景を見ている人々。ポロックを見る人々と、ポロックの上にヴァーチャルに表示されるCG作品を鑑賞する人々。
つまり、ARタテカンのポテンシャルは「サイバー空間への避難」にはとどまらない。物質的実体としての立て看板はそこになくとも、立て看板の鑑賞者がそこにいる、ということ──「絵画をつくるのは見つめるものである(It’s the beholder who makes picutres)(マルセル・デュシャン)──彼らの存在自体が、鑑賞という経験を宙づりにして、そのたがいの異他性を浮き彫りにする形式となる*13。美術家のJens Haaningは、デンマーク・コペンハーゲンの広場のなかでトルコ語のジョークを放送することで、移民トルコ人たちの存在を、彼らの笑い声によって召喚した*14。ARタテカンは、そうした不可視性、見る/見ない人々の分断をもってこそ、政治的な境界線を、大学敷地の擁壁面から、彼らを分かつスマホの液晶面へと移動させたのだ。
政治的な境界線を、メディアをもちいて、時空間の経験なかでどう再編するか。芸術の政治性はその地点にこそ賭けられている。

  1. アイロニー/ユーモアについて付記する。アイロニーとは、「張り紙禁止の張り紙」のような存在を暴露することで法の構造的な不全を射るものであるが、ユーモアは、「ならばこれはどうだい」と、言語のバッファを利用して、法のだらしなさを射るものだろう。
  2. へいほー(@5ebec)
    https://twitter.com/5ebec/status/998026144321454081
    2018日5月21日閲覧。ただし氏の「ARタテカン」は美術作品として発表されたものではなく、あくまで本稿はそのメディアとしての特質が、美術・展示の形式になぞらえて考察できるものとして題材にしている。
  3. 参照:福住廉+後小路雅弘+五十嵐理奈, 2017, "美術批評と動向 日本・アジア編" 美術手帖編集部編「これからの美術がわかるキーワード100」, 美術出版社「美術手帖」2017年12月号所収
  4. Jacque Rancière, 2000, Le Partage du sensible, Le fabrique, 『感性的なもののパルタージュ』梶田裕訳, 法政大学出版局, 2009
  5. 星野太, 2013,「ブリオー×ランシエール論争を読む。」, イオスアートブックス『コンテンポラリー・アート・セオリー』所収
  6. 美術家Walead Beshtyの《FedEx》は、宅配サービスでガラス箱をギャラリーまで運搬し、その輸送のあいだに傷ついたそれと、梱包していた段ボール箱とを合わせて展示している。それは、会場にある物品がどこからか運ばれてきたものであるという証左である。こうした取り組みは、ポストインターネット環境における「忘れられた空間」(野尻亘)たるロジスティクスへの言及ともいえる。京都大学の立て看板にまつわる件は、そうしたメディア環境への示唆を多く含むものではないが、輸送の過程自体を強調するBeshtyのこうした取り組みは、本稿で指摘した〈移送〉の文脈からも参考になるだろう。

    参考:野尻亘「物流クライシスとカーゴ・モビリティ:「忘れられた空間」と「一見秩序づけられた無秩序」」,青土社『現代思想』2018年3月号所収
  7. Christians Paul, 'Remotely Distant Never Nowhere: The Art of Rafaël Rosendaal', in Rafaël Rosendaal, Everything, Always, Everywhere, Valiz, 2018
  8. へいほー(@5ebec)
    https://twitter.com/5ebec/status/998028136175423489
    ARタテカンによってこのような〈変人〉が何もない擁壁周辺に群がり、彼らの存在が異他的なものとして見られること、それこそが本稿の指摘するARタテカンの展示形式としてのポテンシャルである。
  9. 参照:Nicolas Bourriaud, Relational Aesthetics, Les presses du réel, trans: Simon Pleasance & Fronza Woods, 2002, p.17