インスタレーションという芸術はカードゲームかもしれなかった

うそのたばこ店」メールマガジンで配信された文章の抜粋です。
updated: 2023.6.30

インスタレーションという芸術はカードゲームかもしれなかった。

インスタレーション・アートの先駆けといえるスタイルは複数ある。
早いものでは国際シュルレアリスム展にジオラマがあった。リシツキーは展示ブースを作った。シュヴィッタースは家をセルフビルドした。60年代になって、アラン・カプローはアスレチック、オルデンバーグは店、イヴ・クラインは内覧会を作品にした。ミニマリズムはホワイトキューブ、タレルは光、ボイスはオフィス、オイティシカは寝床。ビュレンは模様を貼りまくった。派生で、ブロータースが美術館を模したり、シカゴやシュナイダーが生活空間を模したり、ナウマンは不気味な廊下を作り、アッシャーは画廊をリニューアルして、グレアムは視聴覚室をこしらえた。ランド・アート(屋外のスポット)とサイト・スペシフィシティ(特定の場所ならでは)は一旦除いても、それらにビデオや生身の人間が追加されることもある。時代がくだって、ティラヴァーニャの宴会場、ゴンザレス゠トレスのテイクフリー、ヒルシュホルンの掘っ立て小屋。
19世紀後半以降に成立した芸術ジャンルのなかでも、写真や映画、ビデオゲーム、ウェブコンテンツ以上に、インスタレーションの出処は判然としない。「メディウム・スペシフィシティ」とは、絵画や彫刻といったそれぞれの芸術のそれならではのものを指す。インスタレーションについてそれを簡潔に言うのはむずかしい。

絵画は絵画ならではのことに没頭するし、彫刻は彫刻ならではのことに没頭するのだ、というのがモダニズムの考えだ。物質として止まって存在するそれらはわかりやすいのだが、映画のフィルムはそのままだとただのプラスチックの巻物だ。ロザリンド・クラウスは映画のスペシフィシティを、映像の中身より装置にもとめる(元ネタはスタンリー・カヴェル)。スクリーン、映写機、暗闇、客席、などが合わさって、映画を映画ならではの感じにする。テレビやNetflixで観るといかにも映画という感じにならないのはそのせいだ。映画館に一時停止はない。映画館という、機械の設計と観客の作法があってこそ、フィルムは「映画ならでは」になることに没頭する。
そうしたことをクラウスは、技術・物質・お約束の組み合わせととらえた。コメディでもサスペンスでも、映画らしくなるのは映画館のおかげだ。物質が、そうした装置やプロセスを経て、それ自体の世界をもって作品になる。これをハイデッガーはドイツ語で「ゲシュテル」と呼び、ラクー゠ラバルトが「インスタレーション」と訳を充てた。映画館のことを、フィルムのひとつひとつのコマがノンストップで回って映画になる、その自動性への没頭を保証する、「インスタレーション」だと言ってみよう。
物質が、知覚的なプロセスを経て、ただの物質をやめて、何かならではのものになる。映画館が、映画のための「条件」としてはたらくインスタレーションならば、ミニマリズムのための「条件」としてはたらくインスタレーションは、展示室だ。絵画や彫刻の置かれていたホワイトキューブを、インスタレーションとしてミニマリズムは再発見する。

ミニマリズムは絵画の出来心だ。クレメント・グリーンバーグは、絵画という芸術は「平面として見る」ということに尽きるのだと唱えた。そして60年代のなかば、それなら何も描いていなくても、張っただけのキャンバスでさえ絵画ではないか、絵画ならではの条件は満たすではないか、と血迷う。さすがに絵画とは思えない、とマイケル・フリードはぼやいたが、ドナルド・ジャッドはむしろエスカレートさせる。「何かならでは」であるのが大事なら、絵画かどうかは知らないが、その張っただけのキャンバスは、たしかにそれならではの物体だ。箱もそうだ。どんな箱もひとつひとつ、その箱ならではの箱だ。部屋もそうだ。
フリードはジャッドに全面的に反抗する。その箱は、たしかに気をそぞろに引かれるが、でも芸術作品ではない。何の芸術かわからない。そう、実はこのとき新しいインスタレーションが成立していたのだ。その箱の置かれている、ホワイトキューブである。絵画を置くだけではホワイトキューブは何の条件でもなかった。絵画はアトリエにあってもリビングにあっても絵画だ。でもその箱がホワイトキューブにあることは、その展示室にいかにも「ならでは」の性質を帯びさせる。映画館のような機械こそないが、毎回塗り直す白い壁、それらしい照明器具、いい具合の天井と、そして鑑賞者側の作法でインスタレーションは成り立つ(フリードはそのお約束にのらなかったのだ)
だからミニマリズムは、絵画をとどのつまり「平面」だ、と切り詰めてしまった先にある。ホワイトキューブの空間が、置き方を工夫して、ただの平面に見応えを与える。こうして技術と物質と約束事の「インスタレーション」になったホワイトキューブで、以来半世紀、個々様々のインスタレーション・アート作品が生まれてきた。光も風も、箱も坂も音も、浴室もソファも人体も、そこでインスタレーション・アートを名乗った。

――では、絵画を切り詰めた先が、平面「ではなかったら」?
そこには別の「インスタレーション」、もしくはその代わりの「何か」があったかもしれない。

グリーンバーグが絵画を「平面」に切り詰めたなら、フリードは絵画を「おもてと裏の面」に切り詰める。
フリードは絵画に「没入」を評価する。わき目もふらずデッサンを描いている人。シャボン玉ふかしに夢中の人。こんこんと眠っている人。父の遺言に聞き入る家族。観ている私たちがその作品に入る隙はない(映画と同じ)。絵が、そこに描かれている世界に引きこもり、観ている私たちのことを忘れてしまう。あ、気づいていないな、と私たちは感じる。一瞬のことかもしれないが、たしかに、あちら側とこちら側が互いに別の世界になる。
よくフリードが挙げるのが、シャルダンの《カードのお城》という絵だ。机に座った少年はトランプを並べるのに集中して、それを(画面越しに)眺めている私たちに気づいていない。没入だ。


Jean-Baptiste Siméon Chardin, 1737, Le chateau des cartes [The House of Cards]

こちら側の世界とあちら側の世界をマジックミラーのように分ける、(平面としてではなく)境界面としての絵画。
《カードのお城》の手前近く、そこだけ例外的にこれみよがしに、引き出しが開いている。少年は気づいていないようだが、二枚のトランプが挿さっている。この二枚のカードにこそ、フリードは没入の境界面としての絵画の象徴をみる。絵柄の見えるおもて向きのカードは、私たち鑑賞者に直面している。そして白い裏向きの(この頃のトランプは裏面の模様がなかった)カードは、トランプ並べに集中してひきこもる少年の没入した内面。
見せている面と見られない面との二つの面が、おもてに裏に重なるもの、つまりカードが、絵画と世界の関係だ(と切り詰められる)

しかしカードの本領はソリティア(一人遊び)より何人かで遊ぶゲームだ。
カラヴァッジョの《トランプ詐欺師》には、トランプゲームに熱中する三人が描かれている。厳密には、カードをもっているのはテーブルを挟んだ二人で、残る一人は、奥の一人の手札の中身を脇から見て、手前の一人にひそかに教えている。


Caravaggio, c.1594, Bari [The Cardsharps]

いかさましていようといまいと、三人はそれぞれ自分の状況に「没入」している。ゲームに勝つためだ。この手札でどうすれば勝てるのか、どうやって気づかれずに手札の情報を渡すのか、いかさまで情報を得ているのをどう隠すのか。
自分だけの状況に「没入」するのは、その手札が自分だけのものだからだ。手札のおもて面は自分に、裏面は相手に向いている。だから、いかさまが入るのも少し複雑だが、それでもこの、見えない、知っている、といったことの関係が、カードという物体にあるおもて・裏の二面性によって作られているのは変わらない。
カードの面を「face」と言う。おもてになる札を「face up」、伏せる札を「face down」と言う。相手に心中を読み取らせないための無表情を「ポーカーフェイス」と言うように、ゲームで相手に「裏面」しか見せないのは、カードだけでなく、表情もそうだ。《カードのお城》の少年が私たちに気づいているかどうか、それは顔を見て判断したはずだ。
マネの絵にはよく、じっとこちらを真っ直ぐ向いた、無表情の人物が描かれる。でもその無表情には、ポーカーフェイスのように、何も読み取れない。私たちに焦点など合っていないうわの空の没入なのか、見ているけれど見えていないふりをしているのか。


Édouard Manet, 1863, Le Déjeuner sur l'herbe [The Luncheon on the Grass]

絵画が「平面」に切り詰められて、それでも「それならでは」の質を得るために、ホワイトキューブという空間をインスタレーションの「条件」として再発見したならば、「おもてと裏の面」に切り詰められた絵画が「条件」にするのは、カードゲームという空間だ。自分にしか見えない手札のおもて面。相手の手札の裏面。誰にも見えない山札の裏面。誰からも見える場札のおもて面。相手の無表情。垣間見える表情。自分がきちんと無表情をできているか、自分ではわからない。シャッフル。トレード。オープン。クローズ。
三次元的なかたちから出来るのとは異なる、見えているか見えていないか、知っているか知っていないか、賭けるか賭けないかという二値の絡み合った、まったく別の諸次元からなるゲーミックな状況が、そこで行われるカードのやりとりに質を与える。フィルムリールをただ眺めても映画にならないように、カードはただ眺めるのではなく、一定の法則にのせて、はじめてプレイされる。展示室を歩いて見るように、この空間は、カードをプレイすることによって可能性を探索される。
絵画の平面性からインスタレーションという形式がでっちあがったなら、両面性からはカードゲームにたどりつくかもしれない。近年、フリーポート(空港の非課税エリアにある倉庫)に眠っている絵画は、部屋で観られるためのものより、裏向きでシャッフルされるカードに少し似ている。薄い長方形の物体は、すこぶる取り回しがきく。

インスタレーションという芸術はカードゲームかもしれなかった。


Georges de Latour, 1636–1638, Le Tricheur à l'as de carreau [The Card Sharp with the Ace of Diamonds]