昨年11月に公開したテクスト「コンコースで踊る」は、その前日に開催されたトークイベントでの発表を整理したものだった。このトークイベントは、東京藝術大学建築科TAPERED GALLERYにて開催されていた「オブジェクトディスコ」展に際したもので、この展示自体は、木内俊克建築事務所+砂山太一+山田橋に設計された公開空地《オブジェクトディスコ》(2016,東京都中野区)をモチーフに、8人のトーカーがそれぞれ発表し、ディスカッションするという形式だった(トーク全体のアーカイヴは2018年1月現在未公開である)。*1*2*3
「コンコースで踊る」は、あるオブジェクトのもつ性質どうしの関係についての覚書だ。《オブジェクトディスコ》は25平米ほどの公開空地で、複数のオブジェクトから構成されている。そうしたオブジェクトのそれぞれは象徴的な意味をもっていないが、高い密度で隣接することにより同時に鑑賞され、単体で鑑賞したときには起きないような連想の効果が生まれる。作家はオブジェクトどうしの秩序は「辞書的」であり、ゆえに日用品や二次的な他者介入を受け入れる「公共性」をもつと考えている。*4
たとえば、「コンコースで踊る」に添付されている《オブジェクトディスコ》の写真には、公共に設置された電柱の支線カバーの近くに、その斜めの角度に揃えた角度で設えられた鉄骨が並んでいる様子が見える。これらが並んでいるときに、まずそれらがともに持つ〈角度〉という性質が、両者において揃っているという点で前景化する。つづいて、その対比的かつ直示的な差異である、〈黄色い/鈍い銀色だ〉、〈ゆがんでいる/まっすぐである〉〈太い/細い〉などが見出される。つづいてそうした視覚的な印象から、〈柔らかい素材(だろう)/硬い素材(だろう)〉〈カバーだ/支持体だ〉、さらにさまざまな要素の関係が検討されることで、〈もともと設置されていた公共物だ/この空き地とともに設けられたものだ〉〈定期的に交換されているだろう/半永久的だろう〉などと、より複雑な解釈を要する性質が見出されてくる。こうした、複数のオブジェクトがもつ諸性質が、鑑賞という時間的な運動のなかで見出されるときのシークエンスを、「コンコースで踊る」では〈電車の乗り換え〉に例え、そこから、オブジェクト自体は、そうした性質どうしの関係が立体的に構成されている〈駅〉、またひとつのオブジェクトにおいて、その性質どうしが連鎖的に感取される経路を〈コンコース〉という語で例えた。すなわち、オブジェクトにおける〈性質のダイアグラム〉を具体的に考えていくことの提案だ。*5
さて、オブジェクトのもつ性質に注目したのはデイヴィッド・ヒュームである。個別のオブジェクトを、規則的に共起するような「性質の束」へ還元したヒュームのアプローチについて、「コンコースで踊る」でも言及しているグレアム・ハーマンは、オブジェクトを「上方解体(overmine)」して関係へと還元する哲学であると批判し、たいしてオブジェクトをそれ自体で思考するために、アクセス可能な感覚的性質/アクセス不可能な実在的性質をともにもち、他のオブジェクトには感覚的対象として顕現しながら、その内にアクセス不可能な実在的対象として退隠する、という四項目の緊張関係を提示した。ハーマンは、感覚的特徴が退隠する実在的対象という核から引き剥がされることで、その実在的な対象からの放射物だけが残るという、オブジェクトにおける統一性に引き裂きを「魅惑allure」と呼び、ありふれた日常的知覚を一変させる「強力な情緒的衝撃」とみなす。*6
では、《オブジェクトディスコ》を鑑賞するときに起きる知覚・認識とは何だろうか。それを現象学的に考えることが、「コンコースで踊る」の主眼でもあった。ヒュームが言うような、性質の束が共起する立体的なダイアグラムがそれぞれのオブジェクトに固有な性質としてある、というのがその主張だが、その鑑賞で起きていることは、そうしたダイアグラムの各ノード(諸性質)を転々とめぐっていくことだ。とくに、複数のオブジェクトを比較したときにその関連する性質がとくに前景化する(「電柱カバーが斜めであることが、これほどにも感じられることがあるだろうか!」)のは、ハーマンが魅惑の例として挙げるメタファーの効果にも似ている。「イトスギは炎だ」という表現によって、それまで統一的に把握されていたイトスギの感覚的特徴の構成の再検討が行われ、その奥の実在的なイトスギが、ヴェールの向こうに透かし見られるというのだ。ハーマンが強調するような「衝撃」というには微弱なものだが、《オブジェクトディスコ》の諸オブジェクトが、たがいの性質を連想させるように隣接しているのは、そうした小さな魅惑を、さざなみのように発生させる効果だといえる。「イトスギ」と「炎」をつなぐコピュラ〈は〉が、鑑賞における注目の時間的な推移に対応し、空間における位置関係、ゲシュタルトへと実装されているのだ。*7
ところで、《オブジェクトディスコ》をモチーフにした「コンコースで踊る」で提示されたダイアグラムは、その具体例が視覚的な要素における運動ばかりである。《オブジェクトディスコ》の、設計において予想されていた機能は、明言されているとおり「公共性」で、それはその設計理論のポテンシャルとして与えられていたが、いっぽうで、個別の色や形状、距離感、重なりなどの視覚的要素を、特定の機能・使用法(の予感)へ結びつける理論として、J.J.ギブソンの「アフォーダンス」理論がある。ギブソンによればアフォーダンスとは「その動物がフィットする環境の特徴の位置セット」であり、ただの主観的な印象ではない、客観的・物理的にそのオブジェクトに実装されているものである。ただしギブソンは、「我々が対象を見て知覚するのは対象の性質ではなく、対象のアフォーダンスである」「対象が分析されて生ずる性質の特殊な組み合わせは、通常は注意されていないものである」とまで主張しており、そこでは《オブジェクトディスコ》のような、性質自体が、それにもとづいた行動をあまりアフォードしない(せいぜい、他の性質との類比・対比を促す、その性質自体を凝視させるという程度だろう)ような性質関係にはあまりコミットしていないようだ。「知覚は経済的なものである」というのも、こうしたギャップの証左であり、《オブジェクトディスコ》はむしろ〈浪費〉的な知覚を促すともいえまいか。*8*9
とはいえ、個々の性質やその配置が機能をもつというアフォーダンス理論を、《オブジェクトディスコ》で誇張的に実装されたことで見出された、〈性質のダイアグラム〉ないし〈乗り換え・コンコース〉の理論と結びつけることは可能だろう。繰り返せば、乗り換え・コンコースとは、オブジェクト間での個々の性質の類比や対比が、それぞれのオブジェクトがもつ性質どうしのダイアグラムの再検討を誘発し、魅惑が感じられうるということだったが、視覚的性質が機能を提供するというアフォーダンス理論をそのまま代入すれば、そうした性質のダイアグラムが再検討されるときに、そのオブジェクトのアフォーダンス、機能、活用法が再検討されるということでもある。11月におこなった展示《理想の収納》では、ざっくばらんに言えば、床面にある一軒家の間取り、そのリビングに当たるところに、抽象的な立体、またじゅうたんやソファなど実物の家具、あるいはキッチンに当たるところにステンレスを支持体にもつ絵画作品をインストールしていた。それは、《オブジェクトディスコ》のごとく連鎖的に前景化するそれぞれの性質が、たとえば机としての使用可能-感、テレビ台としての機能性、リビングとしてのくつろぎの提供、水場のしつらえとしてのありよう、などの生活的アフォーダンスを〈ディスコ〉させるような効果をもっていた、と考えることもできるだろう。たとえばテレビはソファから眺めるような角度で置かれており、鑑賞者がソファに座ったとき、たしかにそれはリビングでソファを観るという体験、そしてその体験とともにある身体を誘発しうるのだが、視点を変えると、そのテレビは展示室全体の壁面に平行に置かれており、それはいかにも美術展示のフォーマットに則っており、美術鑑賞の身体を誘発しうるともいえる。ソファにしても、座るまでは、映像鑑賞のためのしつらえのように予想されるが、ひとたび靴を脱いで座ったとき、じゅうたんの起毛のやわらかさが足裏に伝わり、ソファに腰が深く沈み込むことで、はじめ〈展示のおなじみの備品〉として統一されていた感覚的特徴のダイアグラムが再検討され、〈まるでリビングのソファ〉として再編成される。そのとき、そのソファの「魅惑」が滲み出ていることだろう。すなわちここでは、個々の家具や見出されたリビングというオブジェクト、あるいは展示全体のしつらえが、ハーマンがしばしば参照するハイデッガーの道具分析になぞらえれば、「壊れ」つづけるのである。鑑賞の時間的推移のなかで再検討されつづける性質のダイアグラムとは、次の壊れ方をいざなう具体性、「囮の上方解体(decoy overmining)」、「油断(negligence)」なのだ。*10
さて、視覚的な性質と、そこからアフォードされる機能(が備わっているだろう、という性質)とは、C.S.パースのいう「類似記号(イコン)」「象徴記号(シンボル)」を思わせる。パースにおいて類似記号とは、類似性にもとづくものであり、たとえば富士山に似せて書かれた絵、鳴き声に似せた擬音語、写真、あるいは類似性にもとづくコードなどが挙げられる。《オブジェクトディスコ》や《理想の収納》で見出される、物理的性質、色や角度、質感、大きさ、図形、などはまさに類似記号である。たいして象徴記号は、あくまで解釈・使用する思想によってこそ記号となる。その解釈の法則をパースは「一般観念の連合」というが、それは意識的であれ無意識的であれ私たちがもっている社会的・身体的なコードである。その意味で、視覚的な類似記号を、ほぼ直観的にであれ、身体のコードにもとづいて解釈するアフォーダンスは象徴記号であるといえよう。そもそもアフォーダンスの理論が、類似記号からあるカテゴリーの解釈記号が自動的に連想されることそのものを指すといえる。*11
イコンとシンボルに、物理的因果関係にもとづく「指標記号(インデックス)」を加えたパースにおける記号の三分類は、世の中のさまざまな対象がそのどれかに振り分けられる、いわば「水平的」な分類として言及されることが多いが、実際にはパースはそうした記号性が入れ子になる状況をも想定していたのであり、記号性どうしはたがいに演繹や帰納、アブダクションといったかかわりをもつ。その点でパースは、より要素が連合することで、記号は解釈記号(の連鎖)になっていくとして、解釈記号をその体系の重点においている。ざっくばらんに言えば、「記号の記号」がそこでは問われているのだ。「象徴記号があることを示す象徴記号」はもちろん、「それが類似記号であることを示す象徴記号」や「それが指標記号であることを占めす類似記号」などもある。後者の例を挙げれば、「印画紙の質」「L判サイズ」だろう。(もちろん必ずしもそうではないのだが、)支持体となる印画紙の質感やL判サイズはそれ自体、そのオブジェクトが写真であり、指標性をもつことそれ自体を表しうる。L判印画紙の風景のイメージを渡されて、いったいどこで撮った写真かと疑いなく訊いてみれば、精巧な絵を写真に見えるように印刷しただけ、と種明かしされるかもしれない。*12
またそうした連鎖も、かならずしも、〈類似記号を指す指標記号を指す指標記号を指す象徴記号を指す……〉というようなリニアな連鎖というわけではない。むしろ、記号とはその自身の位相において純粋であることはないのだ。どういうことか。つまり、ある性質はまるきりそれが類似記号である、ということはなく、類似記号としてのありよう、指標記号としてのありよう、象徴記号としてのありようが、つねに混ざり合って不純粋であるということだ。その意味で、オブジェクトにおける諸記号は、水平にも垂直にも伸びるような構造体をつくりあげている。それはもはや或る〈ダイアグラム〉といえよう。
佐藤守弘が、フランソワ・ブルネのパース解釈を参照して論じる「擬写真」の問題をとりあげよう。佐藤は、遺影写真をもとに描かれた掛け軸《西川家中興之像》を紹介しながら、写真というメディアはそもそも「アイコンとインデックスのプラグマティックな結合」、「二つの経験の順序(過去と現在)、対象との二つの関係のモード(アイコン的/類似的とインデックス的/現存的)を混ぜ合わせた記号なのである」、というブルネの解釈を紹介する。つまり、写真とはインデックス性をもちながら、それに先立ってまずイコンであるということだ。*13
だからこそ、写真は絵画化されてアイコン的側面を肥大させることも可能であるし、それによっても、そのインデックス的側面が消え失せることはない。擬写真は、いかに絵画化されようとも、その基底に写真的なものが存在することを私たちが知っている限り、バッチェンが言うように『へその緒』のように指示対象とつながり、インデックスからアイコンへとずれながらも同一性を保持し続けるのである*14
佐藤は、東方教会の画僧が「無心」で複製した聖像についてもインデックス性を見出す。一見人間が描いている以上、そこでは物理的な因果性が途切れた解釈記号(表現)ないし類似記号であるように思われるが、むしろ佐藤がここで「無心」に絵を模写することにコピー機のごとき指標記号性を見出しているのは眼目である。一般的な写真にせよ、擬写真にせよ、また無心の模写や着色絵画、加筆された写真など、いずれのメディアにしても、何らかの指標記号性と類似性とが混在していると私たちが解釈すること、佐藤の言葉で言えば「その基底に写真的なものが存在することを私たちが知」るかぎりで、それは写真的であるのだ。つまりこの立場では、〈類似記号と指標記号とのダイアグラム(のうち、社会的に限定される特定の布置をもつもの)〉こそが、写真(的)であるといえる。あるオブジェクトを構成する性質・記号のダイアグラムのなかに、類似記号と指標記号からなる特定の「布置のかたち」が見出されることで、そこには「写真的なものが存在する」と知られるのだ。*15
ここで、佐藤の記述にある「写真的なもの」という記述から、ロザリンド・クラウスの概念「写真的なものthe photographic」を連想しよう。佐藤が明示的にここでクラウスを連想しているかはわからないが、とはいえ十分に類比できる概念だと思われる。甲斐義明はクラウスの概念「写真的なもの」が、その理論においてどう変遷してきたかを概観している。クラウスはまず「インデックスについての覚書」(1977)で、当時の美術を支配する原理を「写真的なもの」として、それが指標=インデックス性に由来する「痕跡性」であると述べる。のちに「シュルレアリスムの写真的諸条件」(1981)では、シュルレアリスム美術の共通項として「写真的諸条件」を挙げ、それはたとえばフレーミングなどの作用で現実を記号化するようなメディウムとして再定義される。これはそれぞれ、文字通り「指標記号」と、「指標記号性(それが〈現実〉を、たとえキメラ的にであっても構成する)を指す解釈記号」にあたると考えられる。ここでも記号性の立体化が、「写真(的なもの)」というメディウム(概念)と結びついているのだ。さらに「写真とシミュラークルについての覚書」(1984)で「写真的なもの」はシミュラークルと結びつく。*16
クラウスにおける「写真的なもの」という概念の運用は、あくまで写真を「理論的対象」として扱うことで、メディウムとしての固有性をキャンセルすることが目的にある。この姿勢は、佐藤が「無心」にも、写真に結びつく指標記号性を見出すことと類比できるだろう。ところで、この「写真的なものthe photographic」を、シャーロット・コットン『写真は魔術』序文は「手品」と結びつけているが、より刮目すべきは、コットンが、「ポスト分野的な芸術の時代」である現代においては、写真だけでなく絵画、彫刻という名詞も、動的な形容詞へと変化すると指摘していることである。コットンは、「写真的photographic」「絵画的painterly」「彫刻的sculptural」という身ぶりこそが、創造においてオリジナリティを作りだすための作用因しだと述べ、とくに現代での「彫刻的で写真的なもの」の出現について述べたり、Photoshopの、従来の絵画の手法や写真現像技術を模倣した機能をもつことで、伝統的な絵画的作者性・写真的作者性の観念を構成したり侵犯したりする、とみなす。ここでも、写真や絵画概念を、その記号(の記号)の制作方法へと還元することで、より流動的なものとして扱っている。*17
クラウスが『メディウムの再発明』は、メディウムを「所定の技術的支持体の物質的諸条件に由来する(だがそれと同一ではない)一連の慣習(conventions)」として〈再発明〉して、当時の「ポストメディウム的状況」を、そのカウンター的批判の矢面に立たせる。グリーンバーグ以後のメディウム観念を脱構築した末の、「シニフィアンの砂漠」のようなものであったといえよう。クラウスによって〈再発明されたメディウム〉は、物質的諸条件と、その慣習すなわち機能するしかたとが、再構成されうるようなかたちで組合せられた、記号のダイアグラムであると考えることができる。それは立体的で、かつダイナミックに、次なる機能を目指して変形しうるものである点で、砂漠とは異なる。かくしてそれぞれのメディウムは、その記号的組成がなお変形してもそのメディウムでありつづけ、むしろその慣習・使用法を拡張しつづけるのだ。その再構成において、個々のオブジェクトとは違う領域で、メディウムそのものの「魅惑」さえもほのめくのだといえる。見出されるダイアグラムの同定さえもまた、ある形どうしの類比であるという点で、類似記号的、ひいては認知心理的でさえあるといえよう。*18*19
《オブジェクトディスコ》や《理想の収納》は、そうした性質-記号のダイアグラムの再編成が、批評の場や、作品どうしの関係だけでなく、個別の空間それ自体の中で実演されるようモデル化、誇張したものでさえあるといえる。こうしたアプローチから、今日のインスタレーションの、ある具体的かつ心理的なしつらえ方が再考できる。
また、写真的、絵画的、彫刻的、というように、メディウムはある記号のダイアグラムの、解釈によって再編成されうるかたちへと変換された。ここから、〈メディウムの新発明〉を提起しよう。家具から見出される「家具的なもの」。詐欺から見出される「詐欺的なもの」。それぞれに特有なダイアグラムを抽出して、実践において流用することで、私たちはメディウムを新発明できる、と嘯くことができるだろう。