〈駅〉としてのオブジェクト。二つ、あるいはそれ以上並んだオブジェクトどうしに、何らかの類似した性質──たとえば角度とか、色とか、長さとか、材質とか──が見出される状況を考える。それらはそれぞれのもつ「感覚的性質」どうしが隣り合っているのだが、そのそれぞれの性質を繋ぐ線を、「路線」に例えよう*1。《オブジェクトディスコ》の物質群から例をひけば、電柱カバーと鉄骨に、「あっ、同じ角度だ」という類似を見つける。双方のオブジェクトは、それぞれがもつ固有の角度という性質が一致するかぎりで、そのあいだに「路-線」がひかれる、ということだ。
この比喩を展開して語りたいのは、そうした性質を読みとく鑑賞の、時間的な運動についてだ。それは、《オブジェクトディスコ》のアプローチに対して応答するようなモデルとなっているはずだ。
一旦その「角度」において電柱カバーと鉄骨とに類似を見出したあと、われわれが次に見るのはなんだろうか。次に見るのは、おそらく「色が違うな」という点だ。電柱カバーは黄色、それに対して鉄骨は鈍い銀色である。つづいて、「材質が違うな」という点にも思い当たるだろう。電柱カバーはプラスチック、鉄骨は金属だ。その後、類似した双方を比較して、それぞれの特徴をあぶり出す操作は続く。「重さが違うだろうな」「電柱カバーははじめからあった公共物で、鉄骨は後から設置されたものだろう」「電柱カバーは数年で取り替えられているかもしれないが、鉄骨はもっと持つだろう」…云々。はじめの「角度」という端的な類似から、だんだんと複雑な性質の比較へと進んでいけるだろう*2。すなわち、ある類似をもとにして比較検討するとき、オブジェクトがもつ性質の、サジェストされやすさ、重要度のヒエラルキーやダイヤグラムのようなものがあるのだ。電柱カバーは、まず第一に「斜めの黄色」である、という、ごく端的な知覚だ。
さて、類似を見いだすことを、路線がひかれることに前節でたとえた。敷衍すれば、その二つの類似を見るということは、電柱カバーと鉄骨という二つのオブジェクト=駅の、どちらかから乗ってどちらかに降りる、といった運動になぞらえることができるだろう。これは、どちらが先でも一旦は構わないし、双方向の運動が同時に起きている、というのが実情だ。ここで、一旦〈角度〉の路線から降りたつぎに乗り継ぐ路線の候補として、〈色〉〈材質〉〈重さ〉〈来歴〉〈耐用年数〉などが挙がるという話しだった。駅にはいくつもの路線が乗り入れているのだ。
たとえば上野駅で、山手線のホームで降りると、その向かいに京浜東北線が止まっている。だが常磐線や東海道線に乗るには、一度ホームを変えなければいけないし、銀座線に乗り換えるには一度改札を出る、日比谷線はさらに遠いし、京成上野駅までは一度外に出なければならない。駅に乗り入れている複数の路線どうしは、それぞれの近い/遠い距離で隔てられている。山手線と京浜東北線とは、乗り換えやすい。ダイヤもそう組まれている。
つまり、〈角度〉という路線を降りてからすぐ乗り継ぎやすいのが、〈色〉や〈材質〉という路線なのだ。〈重さ〉や〈来歴〉〈耐用年数〉などの路線までは、だいぶ歩かなくてはならない。乗り換えにややストレスがあるのだ。もちろん必要があればそこまで歩くのはやぶさかではない。なぜなら、そのとき他の路線に用はないのだから。
このように、オブジェクトどうしに類似して見られる性質のカテゴリーを路線として見ることで、性質どうしの連関のしやすさ、サジェストの優先度を、駅の構内の、ホームどうしの距離に例えることができる。オブジェクトのペアにおいて性質の〈乗り換え=転想〉が起こるとき、「次に乗り継ぐ」性質のヒエラルキーが、そのオブジェクトやペアごとに固有にある、ということだ。渋谷駅で東横線から副都心線へ乗り換えるのは〈すぐ〉だが、銀座線へ乗り換えるのは〈歩かされる〉。それが渋谷駅というオブジェクト、あるいはそこでの乗り換えというオブジェクトに固有の構造だ。
そうした路線どうしの距離構造については、実直に〈コンコース(concourse)〉という比喩を充てるべきだろう。オブジェクト=〈駅〉というメタファーは、「それにおいて、性質の転想のために駆け抜ける距離構造、すなわちコンコース」として解釈できる。改めて《オブジェクトディスコ》に注視すれば、〈角度〉路線から電柱カバーに降りたとき、目の前には〈黄色〉路線が控えているだろう。それは類似を一旦挟んだことで、ただ電柱カバーだけを見たときの〈黄色だな〉よりも強烈に、性質が見えている。公園改札から歩いて京浜東北線のホームに向かうのではないのだ。山手線から降りると、まさに目の前に京浜東北線がドアを開けて待っている、あの〈誂えられた〉のような連鎖の臨場感だ。あるいはレンガの二オブジェクトについては、〈レンガ模様〉路線から降りて、次は〈表面処理が滑らかだ/本物のレンガだ〉路線が目の前に控えている。ここではモデルの理解のため、オブジェクトの視覚的性質に代表させて説明しているが、《オブジェクトディスコ》には、空中のある一点へ方向づけられた性質として、「死角をもつベンチ」と「空を見つめる猫」があった。これらも、〈ある空中の点へのリファレンス〉路線が引かれるだろう。
すなわち《オブジェクトディスコ》ないしそこから敷衍できるモデルは、いくつもの、〈性質の、ある偏向をもつ連鎖のコンコース〉をもつ〈駅-オブジェクト〉が集合した〈メトロ〉である、と比喩を進めていけるだろう。《オブジェクトディスコ》の連鎖を辿ってゆく経験は、暗いメトロの、気まぐれな、リズミカルな乗り換え旅だ。それを次々に踊る曲を変えていくディスコに例えてもいいし、踊る相手を次々変えるダンスホールに例えてもよい。
あえて〈メトロ〉すなわち地下鉄の比喩を使うのは、この〈性質が連鎖するためのコンコース〉という、その対象に固有の構造を、グレアム・ハーマンが言う「感覚的性質」「実在的性質」と比較してみたいからだ*3。ハーマンにおいてオブジェクトは、他の対象にとっての経験に現れる感覚的対象と、その後ろにあり決して他の対象からはアクセスできない実在的対象とが同居した状態にある。さらにそれぞれに、経験に現れる感覚的性質と、そうした感覚的性質を理知をもって剥がしたときになお残る、実在的性質とが対応している。ハーマンは前者を偶有的な「射影」とし、たとえばある塔が、時間帯や天候によってさまざまな見え方をするその見え方のことを指している。そうした偶有的なプロフィールを除いてなお残る固有の性質が、実在的性質であり、それは形相的性質とも言われる。繰り返せば、形相的性質は、感覚的対象を剥がしてようやく理論につうじて暗示される、当の対象がそれであるための性質だ。
さて〈性質連鎖のコンコース〉はさきほど述べたように、対象に固有の構造であった。それは、〈その角度〉〈その色〉〈その材質〉などの感覚的性質を理知的・客観的に、これは優先される性質、これは後回しの性質、と峻別することで得られる、ある形相的な性質の一種ではなかろうか*4。つまりあらゆるオブジェクトがもつ〈ある性質のヒエラルキー構造〉は、それ自体もまたそれがそのものであるための固有の性質である。かつこの構造は、程度の差はあるとはいえ、それを経験する主体どうしが似ている──人間どうし、同種の動物どうし、など──、大きく変動することはないだろう。そうした安定性が〈あるある〉という文化の土壌にもなっている。たとえば、(人間にとって)眼鏡はまず〈曇る〉という性質が第一のあるあるだ。次に〈踏んで割れる〉もあるあるだが、〈曇る〉には劣る。〈頭にかけた眼鏡を探してしまう〉は、さらに劣る。お約束、あるあるにもヒエラルキーがある。そこでこれをずっと続けていくと、〈眼鏡はLSDを飲んだ状態で見たら鯨に見える〉というような、あるある度の希薄な性質まで挙げられることだろう。それこそが、オブジェクトの〈汲み尽くしえなさの地平〉といえる。それは地平である以上原理的に超えられないものであって、陽炎のごとく後退しつづける──ゆえにつねに汲み尽くしえない領域は、当然、残りつづける。ハーマンはあらゆるオブジェクトの汲み尽くしえなさを、そのモデルの重点の一つにおいており、それはアクセスしえない領域なのだが、「汲み尽くせるだけ汲み尽くす」ことで、否定的に、シルエットのかたちでその存在自体は薄ら認識できるだろう。*5
だが、汲み尽くしえない領域そのものはアクセス不能であり、ゆえに操作の対象にはならない。実用的な制作論を考えるにおいて、そこを起点に考えるのではなく、別の「汲む」運動について記述するべきだ。さきほどの〈コンコース〉における〈路線どうしの距離関係〉というテーマからは、「汲める領分/汲み尽くしえなさ」といった背反する二領域とは異なる、グラデーションを持った「汲みやすい〜汲みがたい」という性質どうしの優先度が見えてくるともいえる。それは感覚的性質である以上、直接的に操作できる領分だ。ハーマンは芸術作品の魅惑についても、感覚的性質をつうじて実在的対象へ向かう線で示しているように、芸術家がまず第一に操作できるのは、感覚的性質の領域である、というのが実直な話なのだ。その操作のしかたを具体的に実装するためのアレゴリーとして、〈コンコース〉という概念を考えられる。この性質のコンコースとは、「電柱カバー」と「鉄柱」それぞれにおいてあるが、注目すべき〈乗り換え〉は、「電柱カバー+鉄柱」のペアで見られた状況においてこそ発揮される*6。その意味では〈コンコース〉という性質は、形相的にもかかわらず、芸術家の手で操作可能な領域にあるのではなかろうか。感覚的性質を強調したり弱めたり、あるいは近づけたり離したり、密度を調整したりと、たとえば認知心理学的、あるいは修辞学的なアプローチから、それのコンコースは操作できる。この〈コンコース〉構造の制作を熟知したうえで、メトロ全体をデザインすることが、ある制作のスタイルとして考えられないだろうか、というのが、本トークにおける「制作論」の主たる提案だった。*7
福尾匠さん・永田康祐さんからのリファレンス
当該の書き起こしが本日(2017.11.1)時点で発表されていないので詳解は控えるが、汲み尽くしえなさよりも汲み尽くせる範囲の機微に注意すべき、という考えは、福尾の直前のコメントとたがいにリファレンスできるものだ。また実践のひとつの例としては、ディスカッションで永田が紹介した僕の作品*8の構造もリファレンスできるだろう。
僕の場合は、駅の総数を膨大にすることで、潜在的な線の数も増やしていく、という方策をとっているのだが、その中の、無限ではないが無数の〈乗り換え旅程〉のうちどれを選んでも、汲み尽くしえなさがそこにある、ということの片鱗自体に触れることはできまいか、という操作だ。
「意味を伴わない可読性」を、隠喩モデルに対置する
こうした「性質のコンコースを駆け抜けて乗り換えてゆく」といった運動は、山川によって制作され、当日会場で配布されたプリントにもあった「意味を伴わない可読性」という考えに、現象的な解像度を与えうると思える。
永田・楊への質問から抜粋何かと何かを揃えることはデザインの最も基本的な一手です。オブジェクト同士のある性質が「揃っている」という状態は、他属性の揃ってない「ずれ」を顕在化させます。意味を伴わない可読性を持つ「ずれ」は、オブジェクト自体に固着した意味を解きほぐす効果がありそうです。
この引用の前半部分は、前述した〈駅〉のモデルと類比できるだろう。問題は「意味を伴わない可読性」という概念だが、この記述について、当の被質問者である永田からもトーク中に提議はあった。この「意味を伴わない」は、〈マークされていない〉という程度の問題に回収できるいっぽうで、むしろ字義通りに解釈して、「言語的な意味を伴わない」と読めば、それはむしろ原理的に、〈隠喩や換喩から離れた〉「連想」を、 オブジェクトにおいて担保することを提案する話ではないだろうか。僕に投げかけられた質問を以下に引用する。
大岩・中村への質問「ディスコしている」という状態は、制作行為が続いている途切れのない状態と言えそうです。概念として、あるいは実際の手っつきとして、終わりのない制作にはどのような可能性がありえるでしょうか? あるいはそうした制作行為の実現をどう考えますか?
隠喩といえば精神分析で、デリダはそうした隠喩連鎖を、終わらないエクリチュールの戯れ、原エクリチュールが退き続ける「終わりなき分析」と評した、ということを対応させて語った*9のだが、〈駅〉のモデルへとしっかり繋げられなかったので、この節で補足できればと思う。さて、デリダのそうした指摘のいっぽうで、後期ラカンはある症状にたどり着いて「うまくやっていく(faire y savoir)」ことで「終わりある分析」になるとみなすだが、いずれにせよこのような「終わり」という語は、隠喩-エクリチュールの、症状ないし原痕跡へ向かう運動に存しているといえよう。ここでデリダとラカンを十把一絡げに扱うことには留保が必要で、じっさい晩期ラカンやその後を次ぐミレールなどは、ファルスへ向かう隠喩よりも水平的な換喩や、またその換喩のなかで「脚立」に存立する状態を重視した*10。だがそうした、ジョイスにおけるサントームの形での症状の結実モデルはある有効性はあるとはいえど、再現性に欠け、幅広い制作論として採用はできない。こうした隠喩モデルを脱却するものとして、性質の端的な類似をもとにした、〈コンコース〉〈駅〉という概念を手がかりにした「可読性」のモデルを別に立てることはできるだろう。ある核を想定せず、横滑りのときの「階段の昇り降り」自体を鑑賞のダンスとみなすような態度だ。
最後に改めて自作を取り上げれば、「膨大にネットワークを濃密化させる」という方策は、実践的には、鑑賞の常識的な時間を越えていることがその共通の特徴として挙げられる。制作においてサントーム-隠喩的固着を排したとき、つまり内在する論理で作品を終えることの不可能を認めたとき、作品を切り上げるのは、外的な論理の役割になる。鑑賞に要する想定時間(一日ではその反復の全バリエーションを確認しがたい映像作品*11)や、ある「縁起」(学校の時間割と同数のページ*12や、「猫の魂」と同じ数だけのチャプター*13)が作品のかろうじての外枠として採用されている例が、僕の作品からは挙げられるだろう。そうして膨大化されかつ非意味的に切り上げられたネットワークの中で、さらに鑑賞者の事情も加味されることで、「鑑賞が必ず、どこかで断念されるしかない」のだ*14。〈多〉的「断念」と、否定されてもなお〈一〉であり続ける「終わり」との対比も注目すべきであろう。
補足
コンコースすなわち性質、あるいはそののカテゴリの価値付け(evaluation)は、〈心理学的〉問題として、たとえばAIなどである程度のシミュレーションはできるのではないか。またこの価値は、コンコースの距離を駆け抜けるという比喩にも現れているように〈速度〉として考えることもできるので、ベンヤミン的意味での〈無意識〉もある程度リファレンスできないか? ミクロな「性質の連鎖のための構造」は、対象に固有の形相であるとともに、鑑賞のなかにある時間的な運動、現象的な運動にもなる、という二つの側面の蝶番である。