コンコースで踊る

《オブジェクトディスコ》トークへの補遺

東京藝大建築科TAPERED GALLERYの展示「オブジェクトディスコ」(木内俊克建築事務所+砂山太一+山田橋(山川陸、添田いづみ、橋本吉史), 2017.10.20-11.1)に関連したトーク「前掛けと振り向き」にトーカーの一人として登壇しました。当日は、2人ずつ4ペアそれぞれ質問が事前に投げかけられ、それに各人が応答する、という形で行われました。
限られた時間のなかで、十分整理して話すことができなかった内容を、簡単にですが以下にまとめておきます。
updated: 2017.11.1

〈駅〉としてのオブジェクト。二つ、あるいはそれ以上並んだオブジェクトどうしに、何らかの類似した性質──たとえば角度とか、色とか、長さとか、材質とか──が見出される状況を考える。それらはそれぞれのもつ「感覚的性質」どうしが隣り合っているのだが、そのそれぞれの性質を繋ぐ線を、「路線」に例えよう*1。《オブジェクトディスコ》の物質群から例をひけば、電柱カバーと鉄骨に、「あっ、同じ角度だ」という類似を見つける。双方のオブジェクトは、それぞれがもつ固有の角度という性質が一致するかぎりで、そのあいだに「路-線」がひかれる、ということだ。
この比喩を展開して語りたいのは、そうした性質を読みとく鑑賞の、時間的な運動についてだ。それは、《オブジェクトディスコ》のアプローチに対して応答するようなモデルとなっているはずだ。

一旦その「角度」において電柱カバーと鉄骨とに類似を見出したあと、われわれが次に見るのはなんだろうか。次に見るのは、おそらく「色が違うな」という点だ。電柱カバーは黄色、それに対して鉄骨は鈍い銀色である。つづいて、「材質が違うな」という点にも思い当たるだろう。電柱カバーはプラスチック、鉄骨は金属だ。その後、類似した双方を比較して、それぞれの特徴をあぶり出す操作は続く。「重さが違うだろうな」「電柱カバーははじめからあった公共物で、鉄骨は後から設置されたものだろう」「電柱カバーは数年で取り替えられているかもしれないが、鉄骨はもっと持つだろう」…云々。はじめの「角度」という端的な類似から、だんだんと複雑な性質の比較へと進んでいけるだろう*2。すなわち、ある類似をもとにして比較検討するとき、オブジェクトがもつ性質の、サジェストされやすさ、重要度のヒエラルキーやダイヤグラムのようなものがあるのだ。電柱カバーは、まず第一に「斜めの黄色」である、という、ごく端的な知覚だ。

さて、類似を見いだすことを、路線がひかれることに前節でたとえた。敷衍すれば、その二つの類似を見るということは、電柱カバーと鉄骨という二つのオブジェクト=駅の、どちらかから乗ってどちらかに降りる、といった運動になぞらえることができるだろう。これは、どちらが先でも一旦は構わないし、双方向の運動が同時に起きている、というのが実情だ。ここで、一旦〈角度〉の路線から降りたつぎに乗り継ぐ路線の候補として、〈色〉〈材質〉〈重さ〉〈来歴〉〈耐用年数〉などが挙がるという話しだった。駅にはいくつもの路線が乗り入れているのだ。

たとえば上野駅で、山手線のホームで降りると、その向かいに京浜東北線が止まっている。だが常磐線や東海道線に乗るには、一度ホームを変えなければいけないし、銀座線に乗り換えるには一度改札を出る、日比谷線はさらに遠いし、京成上野駅までは一度外に出なければならない。駅に乗り入れている複数の路線どうしは、それぞれの近い/遠い距離で隔てられている。山手線と京浜東北線とは、乗り換えやすい。ダイヤもそう組まれている。

つまり、〈角度〉という路線を降りてからすぐ乗り継ぎやすいのが、〈色〉や〈材質〉という路線なのだ。〈重さ〉や〈来歴〉〈耐用年数〉などの路線までは、だいぶ歩かなくてはならない。乗り換えにややストレスがあるのだ。もちろん必要があればそこまで歩くのはやぶさかではない。なぜなら、そのとき他の路線に用はないのだから。
このように、オブジェクトどうしに類似して見られる性質のカテゴリーを路線として見ることで、性質どうしの連関のしやすさ、サジェストの優先度を、駅の構内の、ホームどうしの距離に例えることができる。オブジェクトのペアにおいて性質の〈乗り換え=転想〉が起こるとき、「次に乗り継ぐ」性質のヒエラルキーが、そのオブジェクトやペアごとに固有にある、ということだ。渋谷駅で東横線から副都心線へ乗り換えるのは〈すぐ〉だが、銀座線へ乗り換えるのは〈歩かされる〉。それが渋谷駅というオブジェクト、あるいはそこでの乗り換えというオブジェクトに固有の構造だ。

そうした路線どうしの距離構造については、実直に〈コンコース(concourse)〉という比喩を充てるべきだろう。オブジェクト=〈駅〉というメタファーは、「それにおいて、性質の転想のために駆け抜ける距離構造、すなわちコンコース」として解釈できる。改めて《オブジェクトディスコ》に注視すれば、〈角度〉路線から電柱カバーに降りたとき、目の前には〈黄色〉路線が控えているだろう。それは類似を一旦挟んだことで、ただ電柱カバーだけを見たときの〈黄色だな〉よりも強烈に、性質が見えている。公園改札から歩いて京浜東北線のホームに向かうのではないのだ。山手線から降りると、まさに目の前に京浜東北線がドアを開けて待っている、あの〈誂えられた〉のような連鎖の臨場感だ。あるいはレンガの二オブジェクトについては、〈レンガ模様〉路線から降りて、次は〈表面処理が滑らかだ/本物のレンガだ〉路線が目の前に控えている。ここではモデルの理解のため、オブジェクトの視覚的性質に代表させて説明しているが、《オブジェクトディスコ》には、空中のある一点へ方向づけられた性質として、「死角をもつベンチ」と「空を見つめる猫」があった。これらも、〈ある空中の点へのリファレンス〉路線が引かれるだろう。

すなわち《オブジェクトディスコ》ないしそこから敷衍できるモデルは、いくつもの、〈性質の、ある偏向をもつ連鎖のコンコース〉をもつ〈駅-オブジェクト〉が集合した〈メトロ〉である、と比喩を進めていけるだろう。《オブジェクトディスコ》の連鎖を辿ってゆく経験は、暗いメトロの、気まぐれな、リズミカルな乗り換え旅だ。それを次々に踊る曲を変えていくディスコに例えてもいいし、踊る相手を次々変えるダンスホールに例えてもよい。

あえて〈メトロ〉すなわち地下鉄の比喩を使うのは、この〈性質が連鎖するためのコンコース〉という、その対象に固有の構造を、グレアム・ハーマンが言う「感覚的性質」「実在的性質」と比較してみたいからだ*3。ハーマンにおいてオブジェクトは、他の対象にとっての経験に現れる感覚的対象と、その後ろにあり決して他の対象からはアクセスできない実在的対象とが同居した状態にある。さらにそれぞれに、経験に現れる感覚的性質と、そうした感覚的性質を理知をもって剥がしたときになお残る、実在的性質とが対応している。ハーマンは前者を偶有的な「射影」とし、たとえばある塔が、時間帯や天候によってさまざまな見え方をするその見え方のことを指している。そうした偶有的なプロフィールを除いてなお残る固有の性質が、実在的性質であり、それは形相的性質とも言われる。繰り返せば、形相的性質は、感覚的対象を剥がしてようやく理論につうじて暗示される、当の対象がそれであるための性質だ。

さて〈性質連鎖のコンコース〉はさきほど述べたように、対象に固有の構造であった。それは、〈その角度〉〈その色〉〈その材質〉などの感覚的性質を理知的・客観的に、これは優先される性質、これは後回しの性質、と峻別することで得られる、ある形相的な性質の一種ではなかろうか*4つまりあらゆるオブジェクトがもつ〈ある性質のヒエラルキー構造〉は、それ自体もまたそれがそのものであるための固有の性質である。かつこの構造は、程度の差はあるとはいえ、それを経験する主体どうしが似ている──人間どうし、同種の動物どうし、など──、大きく変動することはないだろう。そうした安定性が〈あるある〉という文化の土壌にもなっている。たとえば、(人間にとって)眼鏡はまず〈曇る〉という性質が第一のあるあるだ。次に〈踏んで割れる〉もあるあるだが、〈曇る〉には劣る。〈頭にかけた眼鏡を探してしまう〉は、さらに劣る。お約束、あるあるにもヒエラルキーがある。そこでこれをずっと続けていくと、〈眼鏡はLSDを飲んだ状態で見たら鯨に見える〉というような、あるある度の希薄な性質まで挙げられることだろう。それこそが、オブジェクトの〈汲み尽くしえなさの地平〉といえる。それは地平である以上原理的に超えられないものであって、陽炎のごとく後退しつづける──ゆえにつねに汲み尽くしえない領域は、当然、残りつづける。ハーマンはあらゆるオブジェクトの汲み尽くしえなさを、そのモデルの重点の一つにおいており、それはアクセスしえない領域なのだが、「汲み尽くせるだけ汲み尽くす」ことで、否定的に、シルエットのかたちでその存在自体は薄ら認識できるだろう。*5

だが、汲み尽くしえない領域そのものはアクセス不能であり、ゆえに操作の対象にはならない。実用的な制作論を考えるにおいて、そこを起点に考えるのではなく、別の「汲む」運動について記述するべきだ。さきほどの〈コンコース〉における〈路線どうしの距離関係〉というテーマからは、「汲める領分/汲み尽くしえなさ」といった背反する二領域とは異なる、グラデーションを持った「汲みやすい〜汲みがたい」という性質どうしの優先度が見えてくるともいえる。それは感覚的性質である以上、直接的に操作できる領分だ。ハーマンは芸術作品の魅惑についても、感覚的性質をつうじて実在的対象へ向かう線で示しているように、芸術家がまず第一に操作できるのは、感覚的性質の領域である、というのが実直な話なのだ。その操作のしかたを具体的に実装するためのアレゴリーとして、〈コンコース〉という概念を考えられる。この性質のコンコースとは、「電柱カバー」と「鉄柱」それぞれにおいてあるが、注目すべき〈乗り換え〉は、「電柱カバー+鉄柱」のペアで見られた状況においてこそ発揮される*6。その意味では〈コンコース〉という性質は、形相的にもかかわらず、芸術家の手で操作可能な領域にあるのではなかろうか。感覚的性質を強調したり弱めたり、あるいは近づけたり離したり、密度を調整したりと、たとえば認知心理学的、あるいは修辞学的なアプローチから、それのコンコースは操作できる。この〈コンコース〉構造の制作を熟知したうえで、メトロ全体をデザインすることが、ある制作のスタイルとして考えられないだろうか、というのが、本トークにおける「制作論」の主たる提案だった。*7

福尾匠さん・永田康祐さんからのリファレンス

当該の書き起こしが本日(2017.11.1)時点で発表されていないので詳解は控えるが、汲み尽くしえなさよりも汲み尽くせる範囲の機微に注意すべき、という考えは、福尾の直前のコメントとたがいにリファレンスできるものだ。また実践のひとつの例としては、ディスカッションで永田が紹介した僕の作品*8の構造もリファレンスできるだろう。
僕の場合は、駅の総数を膨大にすることで、潜在的な線の数も増やしていく、という方策をとっているのだが、その中の、無限ではないが無数の〈乗り換え旅程〉のうちどれを選んでも、汲み尽くしえなさがそこにある、ということの片鱗自体に触れることはできまいか、という操作だ。

「意味を伴わない可読性」を、隠喩モデルに対置する

こうした「性質のコンコースを駆け抜けて乗り換えてゆく」といった運動は、山川によって制作され、当日会場で配布されたプリントにもあった「意味を伴わない可読性」という考えに、現象的な解像度を与えうると思える。

何かと何かを揃えることはデザインの最も基本的な一手です。オブジェクト同士のある性質が「揃っている」という状態は、他属性の揃ってない「ずれ」を顕在化させます。意味を伴わない可読性を持つ「ずれ」は、オブジェクト自体に固着した意味を解きほぐす効果がありそうです。
永田・楊への質問から抜粋

この引用の前半部分は、前述した〈駅〉のモデルと類比できるだろう。問題は「意味を伴わない可読性」という概念だが、この記述について、当の被質問者である永田からもトーク中に提議はあった。この「意味を伴わない」は、〈マークされていない〉という程度の問題に回収できるいっぽうで、むしろ字義通りに解釈して、「言語的な意味を伴わない」と読めば、それはむしろ原理的に、〈隠喩や換喩から離れた〉「連想」を、 オブジェクトにおいて担保することを提案する話ではないだろうか。僕に投げかけられた質問を以下に引用する。

「ディスコしている」という状態は、制作行為が続いている途切れのない状態と言えそうです。概念として、あるいは実際の手っつきとして、終わりのない制作にはどのような可能性がありえるでしょうか? あるいはそうした制作行為の実現をどう考えますか?
大岩・中村への質問

隠喩といえば精神分析で、デリダはそうした隠喩連鎖を、終わらないエクリチュールの戯れ、原エクリチュールが退き続ける「終わりなき分析」と評した、ということを対応させて語った*9のだが、〈駅〉のモデルへとしっかり繋げられなかったので、この節で補足できればと思う。さて、デリダのそうした指摘のいっぽうで、後期ラカンはある症状にたどり着いて「うまくやっていく(faire y savoir)」ことで「終わりある分析」になるとみなすだが、いずれにせよこのような「終わり」という語は、隠喩-エクリチュールの、症状ないし原痕跡へ向かう運動に存しているといえよう。ここでデリダとラカンを十把一絡げに扱うことには留保が必要で、じっさい晩期ラカンやその後を次ぐミレールなどは、ファルスへ向かう隠喩よりも水平的な換喩や、またその換喩のなかで「脚立」に存立する状態を重視した*10。だがそうした、ジョイスにおけるサントームの形での症状の結実モデルはある有効性はあるとはいえど、再現性に欠け、幅広い制作論として採用はできない。こうした隠喩モデルを脱却するものとして、性質の端的な類似をもとにした、〈コンコース〉〈駅〉という概念を手がかりにした「可読性」のモデルを別に立てることはできるだろう。ある核を想定せず、横滑りのときの「階段の昇り降り」自体を鑑賞のダンスとみなすような態度だ。

最後に改めて自作を取り上げれば、「膨大にネットワークを濃密化させる」という方策は、実践的には、鑑賞の常識的な時間を越えていることがその共通の特徴として挙げられる。制作においてサントーム-隠喩的固着を排したとき、つまり内在する論理で作品を終えることの不可能を認めたとき、作品を切り上げるのは、外的な論理の役割になる。鑑賞に要する想定時間(一日ではその反復の全バリエーションを確認しがたい映像作品*11)や、ある「縁起」(学校の時間割と同数のページ*12や、「猫の魂」と同じ数だけのチャプター*13)が作品のかろうじての外枠として採用されている例が、僕の作品からは挙げられるだろう。そうして膨大化されかつ非意味的に切り上げられたネットワークの中で、さらに鑑賞者の事情も加味されることで、「鑑賞が必ず、どこかで断念されるしかない」のだ*14。〈多〉的「断念」と、否定されてもなお〈一〉であり続ける「終わり」との対比も注目すべきであろう。

補足

コンコースすなわち性質、あるいはそののカテゴリの価値付け(evaluation)は、〈心理学的〉問題として、たとえばAIなどである程度のシミュレーションはできるのではないか。
またこの価値は、コンコースの距離を駆け抜けるという比喩にも現れているように〈速度〉として考えることもできるので、ベンヤミン的意味での〈無意識〉もある程度リファレンスできないか? ミクロな「性質の連鎖のための構造」は、対象に固有の形相であるとともに、鑑賞のなかにある時間的な運動、現象的な運動にもなる、という二つの側面の蝶番である。

  1. こうして線を引いてセリーを作っていく情景は、ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』も連想できるモデルかもしれない。
    「したがって、線-境界は、発散するセリーを収束させる。ただし、発散を削除したり修正したりはしない。発散するセリーをそれ自体として収束させるのではないし、そんなことなど不可能であろう。線-境界は、パラドックス的な要素の周りに発散するセリーを収束させる。すなわち、線を駆け抜けたりセリーを横断して循環したりするような点、発散するがままのもののためにのみ収束円を構成するような常に移動する中心の周りに収束させるのである(分離を肯定する力能)。この要素、この点が、表面の効果が本性的に物体的原因と異なる限りにおいて、表面の効果が結び付くところの準-原因である。この点こそが、さまざまなタイプの秘教的な語によって言葉として表現されるわけだが、それがセリーの分離と調整と分岐を同時に保証するのである」(ジル・ドゥルーズ,1969=2007,『意味の論理学』(下),小泉義之訳,河出書房新社,p.19)
  2. こうした性質の単純さ/複雑さは、C.S.パースがその記号主義的哲学において提示した、第一次的なイコン、第二次的なインデックス、第三次的なシンボル、といった概念整理も参照できるだろう。イコンはごく単純な性質だが、シンボルは、解釈すること=解釈記号を必要とするために、認識のコストがかかるだろう
  3. グレアム・ハーマン,2010=2017,『四方対象』,岡嶋隆佑監訳 山下智弘・鈴木優花・石井雅巳訳,人文書院。本書はハーマンが提唱する「実在的対象」「実在的性質」「感覚的対象」「感覚的性質」の四極からなる構造と、各項間での十種の結びつきについて詳説したものである。そこでは主にフッサールとハイデッガーが参照されているが、上述の偶有的「射影」はフッサール現象学から援用した言葉である。「魅惑」概念はハイデッガーの道具分析を元手に構想しており、ハーマンは芸術作品における魅惑の効果を、実在的対象と感覚的性質との関係から考察する。本稿はそうした「魅惑」の構成法を、実作の立場から思考したきらいもある。
  4. ただし、ハーマンは形相的特徴について、「それによれば、〔フッサールは〕私たちは、カテゴリー的直観を通じてでしか形相にアクセスできず、したがって、知性の働きだけが形相をもたらすという。しかし実際のところ、知性が、感覚にはできない仕方で実在を直接現前させることができると想定すべき理由は存在しない。〔…〕それゆえ、対象の形相的特徴というものは決して、知性を通じて現前させられるものではなく、芸術であろうと科学であろうと、ただ暗示allusionという間接的な手段によってのみ接近可能なものである。」(同p.49)「それゆえ形相へのアクセスはただ間接的ないし暗示的な仕方でのみ可能なのであって、実在的性質への調節的なアクセスは——感覚的なものであれ、知的なものであれ——認められないのである」と述べている。 〈コンコース〉という性質の構造は理知によってたしかに接近されるものであり、それゆえ形相に分類するのもためらわれる。ゆえに以降は「形相的性質」と言及せず、端的に「性質」とのみ〈コンコース〉を形容する。いっぽうこれが「暗示allure」に当たるのかも定かではなく、検討の余地があるだろう。またここでは《オブジェクトディスコ》に想を得ていることと説明の便宜として、感覚的性質どうしの距離構造として〈コンコース〉を説明しているが、〈コンコース〉をなす性質には、形相的性質も含まれると思われる。ただしそれにしても、理知において暗示的にのみ接近可能な性質どうしを、さらなる理知によって階層化・ダイアグラム化できる、と無頓着に言うのも一旦避けて検討したい。
  5. 「すなわち、どんな関係も直ちに新しい一つの対象を生み出すものである、と。いくつかの要素が配置されたとき、それら〔の単なる集合〕を超えた一つの事物が生じ、さらにその事物がその内部構成の変化にある程度耐えることができるなら、配置された諸要素は、いずれも実在的対象として互いに真の関係を築いているのであって、それぞれの感覚的な外観に衝突しているだけではないのである」(ハーマン,同,pp.181-182)。 ここで重要なのは、「電柱カバー+鉄骨」という集合的な(たとえばEUのような)として考えるのではなく、類似とは、オブジェクトどうしが没入しあっている状況において、たがいの志向的関係(知覚)が実在的オブジェクトとして立ち上がっているのを、そのペアの比較においてに限り、感覚的オブジェクトとしてさらにわれわれ実在的たる主体が志向できる、と考えることもできよう。 「というのも、私による木の知覚は、対象としての基準を満たしているのだから。」(p.182)
  6. 「駅」のイメージ自体には二つの由来がある。
    ひとつは、マリオ・ペルニオーラの「多孔的なもの」という概念だ。ペルニオーラは『無機的なもののセックス・アピール』(1994=2007,岡田温司訳,平凡社)の後半において、「多孔的なもの」という概念を「断片」に対置させる形で提示する。いくつかキーフレーズを引用しよう。
    「〔…〕多孔性の経験において力点が置かれているのは、つねに新しい諸要素の入場、取入れ、付加であり、つまり一言でいえば『さらに』である、とわたしには思われる。この足算の無限の広がりこそが、無機的なもののセックス・アピールの無限の興奮と一致する。要するに、感覚するモノの中性的セクシュアリティにおいて決定的なのは、際限なく迎え入れ、迎え入れられる準備ができているという経験なのだ。」(p.111)
    「実際のところ、複数のモノは結局、ある単一の連続性になる。それゆえ、感覚するふたつのモノの出会いは、決定的かつ安定的な形をとることができず、追加を、しかも連続的な足算を続けているというような印象がある。」(p.112) 本稿の「駅を歩いて乗り換えゆく」という比喩も、こうしたペルニオーラの抽象的な記述に本来の着想を得ているといえる。ペルニオーラは本書で人間を含めた対象それぞれがおたがいを感覚するという点で、ひじょうにハーマンの構図と似た考えをもっているため、この二著者は比較検討なされるべきであろう。かつ、同署で「無機的なもののセックス・アピール」をペルニオーラは(後期)ラカンにおける女性的快の開かれに紐付けるが、ハーマンのモデルもまた、千葉雅也によってラカンの「女性の式」との関連を指摘されている。参照:(千葉雅也+平田晃久+門脇耕三+松田達+平野利樹,2016,「「切断」の哲学と建築——非ファルス的膨らみ/階層性と他者/多次元的近傍性」) …余言だが、「無機的なもののセックス・アピール」という語はヴァルター・ベンヤミンの「パリ——十九世紀の首都」、「多孔的」という語は同「ナポリ」にその源流を見てとることができる。都市のイメージが、駅のイメージと接続するのもまたさもありなんと思われる。
    つづいてもうひとつの由来は、2017年6月に開催された展示Surfin'のアーカイブサイトに掲載された、作家陣による(座談会「カラオケ」後半)の終盤で提出した「転轍」のイメージだ。
    「大岩:〔…〕それ〔展示された作品〕がただ、〈デスクトップ的〉にせよ、〈キッチン的〉にせよ、〈ワンルーム的〉にせよ、〈友達の家的〉にせよ、〈浴室的〉にせよ……それぞれが、文脈の立体的な引き込み線をスペシフィックにもっているわけで、さらにそこに情報くんや、猫を飼っている人のフィクションというものが引き込まれて重なることで、それらのスペシフィシティの実際の動き——転轍のふるまいを実演する。」当該ページの註釈54も参照のこと。
  7. 参照:松本卓也,2015,『人はみな妄想する』,青土社,第三部第二章「ヴェリテからヴァリテへ——後期デリダとラカンの新理論」
  8. 参照:千葉雅也+松本卓也+小泉義之+柵瀨宏平,2017,「精神分析的人間の後で——脚立的超越性とイディオたちの革命」,月曜社,『表象11』所収、またジャック=アラン・ミレール,2014=2017,「無意識と語る身体」,山﨑雅広・松山航平訳,同所収
  9. *7参照