以下は、2018年6月23日に王子・コ本やで開催された、ucnv、青柳菜摘、永田康祐のトーク「インスタレーションの質」を聞いたときにツイートしたものを整えて読み物にしたものであり、ツイートのほうをご覧になってもほぼ同じ内容のことを話しているのだが、とはいえすでにこのようにアクセスいただいているので、このまま以下を読み進めていただくことを推奨する。
作品の〈多焦点化〉という言い方を、同年2月に開催した展示「明るい水槽」(これは永田さんとの二人展だった)のときに映像インスタレーション《いつまでも見知らぬ二人》に発表して以来ときどき考えていて、この作品についてはこの下線部のリンクにアクセスすれば詳細が別ウインドウで開くのだが、とはいえ最低限の情報はここに書くのが親切だと思う。
《いつまでも見知らぬ二人》の中心となる映像は、40のチャプターからなるのだが、それが連続して全て流れるわけではなく、たとえばチャプター1の次にチャプター2が流れるとは限らなくて、いきなりチャプター4に飛んだりする。番号が戻ることはなく、チャプター4のつぎはチャプター5だったり、はたまたチャプター10だったりする。最低で連番の、最大で6つ先のチャプターに、すごろくのサイコロのように飛ぶ。それぞれのチャプターは冒頭に、チャプターいくつ、と画面上にも表示されるし、女性の声で読み上げられる。すべてのチャプターは、色とりどりの魚を背景にした、ダイアログから成り立っている。カップルと思しき男性と女性とのダイアログなのだが、彼らは画面には現われず、会話は字幕で表される。その内容は、彼らの食事や趣味、魚を飼っている水槽、あるいはセクシュアリティの話などだ。声があてられているのは女性のほうだけで、男性の声はなく字幕のみである。女性の声は三種類あって、チャプターをまたぐたびにランダムで切り替わる。チャプター1とチャプター40は必ず流れ、後者が終わると声や音楽のクレジットが入り、そのままタイトルが現われ、前者に戻る。これで「一周」だ。
さて、この作品は一周しか見なければ構造がほぼあやふやにしかわからない。チャプターが飛んだような気がする……と感じるに留まるだろう。「チャプター40」と表示されたとき、「40も見たっけ?」と違和感を覚えるだろう。じっさい鑑賞者が一周で見られるチャプターは、計算すると平均して15程度しかないはずだ。「男女の会話だと思っていたが、何やらチャプター進行がふつうではない(unorthodox)かもしれないし、それは重要かもしれない」。
一チャプターしか、せいぜい数チャプターしか見ないならば、構造への視点は上ってこないだろう。チャプターの飛躍に気づかなければ、これは単に「男女のリアリスティックな対話」の映像になる。
逆に二周目に入るか見終わるかくらいすれば、およそ構造は把握できる。明らかにチャプターが欠落していて、その欠落は、周ごとにまったく異なるらしいということは把握できる。前の周では流れていないチャプターがほぼ確実に流れるからだ。すなわち、一周以上見るか、早々と立ち去るかで、作品について手に入る情報が、量的にのみならず、明らかに質的に変化する。
とはいえ本稿の主眼は作品の構造自体について記して一般化することであって、個々人の鑑賞のスタイルの倫理を追及することではないし、そもそも「一チャプターだけ……」も、「とりあえず一周くらい」も、展示における映像鑑賞の慣習のコードに含まれる。ただ鑑賞時間によってそもそも見られるものが形式的に変化するという作品構造はありうるということだ。
当時開催されていた文化庁メディア芸術祭には、美術展示において鑑賞者が映像作品を観つづける時間は平均17秒であるということを扱った作品(Gary SETZER《Panderer (Seventeen Seconds)》2018)が入選していたが、とはいえ映像の鑑賞が通り一遍に何秒ということではもちろんなく、一周がどのくらいか、シーケンスの内容を追うような映像なのか情景を受け取るような映像なのか、チャプター分割があるのか、そうした形式によって鑑賞時間は変わってくる。さらに上述の作品や、Andy Warhol《Empire》(1964)やDouglas Gordon《24 Hours Psycho》(1993)のように、その鑑賞を終えるまでスパンの意識的・無意識的な決定について、作品に内在する要素に左右されることがある。もはや形式と内容とは区別しがたいとはいえ。
ともかく《いつまでも見知らぬ二人》を観ていく経験においては、チャプターの数字が飛んだり声が変わったりすることや、また流れていないはずの音楽の曲名がクレジットされている、などの徴から、「一部のチャプターだけだと得られない物語の要素がある?」「一周だけだと得られない物語の要素がある?」といった推測をもたらす。さらに、そうした推測をアシストするモチーフとして、インスタレーション全体に含まれている、倒れたモノポリー台や双子に見える写真などの作品が(それらはそれらで独立していようとも)、手がかりcueとして再注目されたりする。
こうしたことはミステリー的な枠組みにも比喩できるだろう。起こった状況にたいして、探偵が提示する推理=仮設が、さらなる手がかりの結びつき、より精度の高い説得などによって、別の、更新された推理=仮設によって覆されたり、入れ子にされたりしてしまうようなものだ。推理を立て、それを検証するために行動すると、なにやら別の推理を促すような証拠が現れる。そうして新しい推理をもとに再検分すると、当初とはまた異なる、事件のかたち=形態が見えてくる。
《いつまでも見知らぬ二人》であれば、はじめ、リアリスティックな物語を享受していた状態では、その場で求められる情報は、その物語が要請する虚構世界の水準、あるいはキャラクターの設定や会話内容がもつテマティックなもの……(とりわけ、ポリアモリー/モノアモリーというモチーフ)……になるだろう。だが一定時間以上の視聴によって、その特異なチャプター構造に気づくし、それは無視できる要素ではないことも明白になる。
さて、推理の結び直し・更新は、その推理自体のなかで発生する。チャプター冒頭で番号が強調されるので、三つほどチャプターを見れば、35/36の確率で、チャプターが飛ばされていることに気づくことができる。四つほど見れば215/216だ。憶測が始まると、チャプター番号を検証する段階に入り、「たしかにたびたび欠落があるようだ」と確認できる。クレジットされた音楽は、おそらく未だ見ぬチャプターで使われているんだろうと推測・確信できる。
確認できないことといえば、チャプターの組み合わせがその場で自動生成しているのか、あるいはさまざまなパターンが事前に用意されているか、という程度だろう。それはつまり作品形式における同一性、とくに販売される形式にかかわる。それはひとつながりの映像なのか、プログラムが走るコンピュータを必要とするのか。その作品が欲しいと言ったとき、何が提示されるのか。販売形式について質問することはギャラリーの慣習に含み込まれている。つまり推理の対象が、「会話の内容」や「構造それ自体」からさらに、「そもそもいかなる作品なのか」という問題にまで上昇する。これは一チャプターだけ見ただけでは想定しえない問いだ。
はたして、《いつまでも見知らぬ二人》は自動生成である。つまり事前に生成して丸一日順に流している極端に長い映像ではなく、40チャプターぶんの素材をプログラムがその場で組み合わせて流している。ただし、販売しているのはプログラムや映像素材そのものではなく、台本である。
作品形式への推測を作品内……いわば、「それ自体形式に要請される鑑賞の様式に条件づけられて与えられるもの」によって作動させるようなものを埋め込むこと。それはミステリないしアドベンチャーゲームの作法とも言える。鑑賞の様式自体がまた鑑賞の対象となって再検討されるということであり、それは表象作用が表象内容に入り込むという言い方で一般化もできる。こうした、鑑賞の慣習・作法がアプリオリではないことを鑑賞の対象として強調し、美的なものとして検討させることは、ニコラ・ブリオー『関係性の美学』(2003)、とくにスクリーンに関する章でのメディア論的な議論とかかわる話でもある。
また比喩をつかえば、ミステリは「とつぜん犯人だけ知っても話はわからない」。推理とその転覆が繰り返すシークエンスを追いつづけるというのがその基本形式である。
その過程では、その事件の真相として提案されるものが、怨恨だったり、愉快犯だったりするように、テマティックなものさえも変動する。《いつまでも見知らぬ二人》でいえば、ナラティブの内容(セクシュアリティやリアリズム、それこそ田山花袋的な性的搾取のモチーフもあるリアリズム、あるいは認識論的な省察、メタフィクションなど)が、それこそ短い視聴では前面化される。だが長い視聴と検討とともに、映像構造、またそれを「どう見うるか/見るべきか」という鑑賞構造への注目が進むにつれ、ナラティブの形式のほうが前面化するとも言える。だが、そうして前面化した形式を検討しつづけるには、なお物語内容に付き合っていかなければならない。ダイアログは、その前後の組み合わせによって、そのたびセクシュアリティが主題に躍り出たり、むしろ主題も希薄な〈日記的なもの〉としてのあり方が前面化したりする。
こうした、鑑賞それ自体が鑑賞の形式を、時間の中で弁証法的に変形させていくことを、ここしばらく、作品が〈多焦点〉化する、と呼んでいた──もっとしっくりくる言い方があるかもしれない。
焦点の複数化ないし裏切りは、鑑賞される内容とその鑑賞の条件づけとがいずれも優位にならずにキープされる階層・懸隔から引き出すことができるのだ。ともあれ《いつまでも見知らぬ二人》では、形式と内容とにアレゴリーが結ばれている。はじめは直接に物語として享受されていた言葉も、鑑賞の様式が一度美的に鑑賞・検討されたことで、アレゴリー・寓話として鑑賞されもする。しかし寓話は「寓意としてのみ読む」ことはまた不可能でもある。