ロベルタ・スミス「インスタレーション・アートとかいう甘やかされたガキについて」解説

Roberta Smith, 1993, In Installation Art a Bit of the Spoiled Bratを要約し、コメントを加えました。5千字ほどです。
updated: 2021.3.13

ロベルタ・スミスの「インスタレーション・アートとかいう甘やかされたガキについて(In Installation Art a Bit of the Spoiled Brat)(1993)*1を要約し、以降の時期に出版されたインスタレーション論の文脈をふまえたコメントを加えました。

インスタレーション・アートという、1960年代の観念主義の坊やは、1990年代の甘やかされたガキに育った。大量の素材、美術館の空間を消費して、注目を集めるわりに、大した見返りもない。良いインスタレーションが存在しないと言うわけではない。ただもっと妥当な話をするだけだ。「もうええわ!」というわけ。

このテクストは、The New York Timesに掲載された、シカゴ現代美術館で1992年から1993年にかけて開かれた「Art at the Armory: occupied Territory」展へのレビューです。キュレーターはベリル・ライトで、同美術館が現在の建物に移る前、同地に建っていたAvenue National Guard Armoryで開かれ、会期終了後にこの建物は取り壊されました。コミッションも含む18のインスタレーション作品が展示され、このテクスト以外に、Friezeにジャネット・エイブラムスがArtforumにジェイムス・ヨードがレビューを寄せています。

さて、このテクストはいわゆる”酷評”です。スミスは開口一番「一種の災害」と述べ、退屈な「びっくり箱(funhouse」と形容します。スミスはそれぞれの作品の主題をどれも「もう飽き飽きした」と述べますが、このテクストの面白い点は、むしろ形式・様式への言及です。
スミスはインスタレーションの歴史とその顛末*2を簡潔に説明してから、本展の作品を取り上げ、その特徴を諧謔ぎみに批判していきます。1993年のテクストですが、現在の美術作品にもつながる批判点が多いように思えます。

ハイテクかぶれ(Delusions of High-Tech)

暗室に立派な機械を持ち込んで、この時代でもっとも蔓延した美的経験――テレビや映画鑑賞、とはいえ深みもなければ娯楽もない――を再創造するのにお熱なアーティストは多い。

「デパートのウィンドウ」のようなフランセック・トレス《Entropy, Destiny and Junk》の巨大投影や、同じく巨大な投影を用いたビル・ヴィオラ《Theater of Memory》、また宮島達男《5 Opposing Circles》を挙げて、スミスはこう批判します。
映像装置がインスタレーションへと発展する過程はキャサリン・エルウェスの著作がまとめていますが、ここでのスミスの批判点は、そうした形式への反省もなく、ただ映像のスペクタクルが(しかも、映画やテレビより中身のない*3提示されている点です。

モノホンショック(The Shock of the Real)

〔…〕インスタレーションは奇妙なしかたで実物(life)を真似る。単純にかっぱらってきたりもする。

スミスの批判は、エルウェスが「二重性(doubleness」、レーベンティッシュが「反省(reflection」と呼ぶ美的契機自体の不在に向けられていると言えます。レーベンティッシュによればインスタレーションにおいては絵画も絵画そのものではないし、日用品も日用品そのものではない。それらは「演劇的な記号」として、記号とものとが重なった状態にあります。
しかし、上述の作品が映像装置への反省がなくただ「巨大なイメージ」でしかないように、ここでスミスが批判している「実物を真似る」状態とは、ただそれが芸術の外の世界にあるものであることを示すだけで、なぜそれがわざわざ作品の中に持ち込まれたのか、いかなる表象を不可避に帯びているのかといった点に作家の反省がなく、ただショッキングな実物を持ってきてそれに頼っている状態です。それは以降の「急所狙い」にも通じる批判でしょう。
挙げられているのは、自然災害のプロジェクションの横で、テスラコイル社の協力を得て本物の小さな雷を発生させたダグ・ホール《The Terrible Uncertainty of the Thing Described》や、母乳の入ったいくつものビニール袋に、赤ん坊とその生まれた国名がラベルで貼られたエリザベス・ニューマン《Histories of Human Flesh》です。
最後に「本展が生きた動物を檻に入れて展示していなかったのは不幸中の幸いだろう」という指摘も、先例、あるいは後年のいくつかのインスタレーションを想起させます――ちなみにヤニス・クネリスが12頭の馬を展示したのは1969年です。

風化ショック(The Shock of the Old)

テクノロジーかぶれとは対照的に、インスタレーションは、自然風化や人の手で使ったような、腐食した素材やオブジェクトを過剰に強調したりもする。こうした掘り出し物たちはふつう、わざわざ付け足す必要のないアーティストの連想で溢れている。

風化・劣化するという「モノホン」らしさも同様にスミスの批判点です。ジン・スー・キムやニューマンの錆びた金属や傷ついた人形、石膏ガーゼなど、人間や生の不在や喪失をほのめかした表現に向けられています。
そうした作品を「アッサンブラージュの、ノスタルジックなアートはまだまだ存在する」とスミスは括りますが、ここではもともとアラン・カプローやクレス・オルデンバーグらが1960年代に展開していたエンヴァイロンメントに存在した「ジャンクの美学」を踏まえられています。当時の「ジャンクの利用」や、またアンチ・フォームやプロセス・アートにおける、一時的にしかもたない(ephemeral)素材の利用は、その反流通・反市場主義、またその場らしさ(literalness)を示していたといえます。
スミスは、そうした様式が骨抜きされ、ただタブロー*4として、そのうえ「なにか隠されたような曖昧な意味」しか仄めかさなくなっているのを批判します。

急所狙い(Going for the Jugular)

インスタレーション・アートは、歩いて入れる人情噺(walk-in human interest story)を提供したりもする。そもそも胸の張り裂けそうな話題が三次元空間のなかで扇情的に繰り広げられるやつだ。

鉄の足場や医療機器、胎児や解剖された身体のイメージをいっしょくたにしたTodt《Womb Wars》や、ミイラのような人物画と、AIDS患者の書いたステートメントが並べられた、匿名のコレクティブの作品《The Lazaretto》を指して、「扇情的(sensationalizing」とスミスは述べます。
前にも挙げられた「モノホンショック」「風化ショック」に似た、悲劇性をそのまま提示する、あるいはキッチュなイメージで代替することで、ショック効果を作ろうとしていることをスミスは批判します。
トイ・ホアンの作品について、

アーティストの着想はまったく妥当で――戦争のころにベトナムに住んでいたという。別に彼に才能がないわけではない。でも、記憶すべき人生経験は――パネルに書いて説明するべきであって――記憶すべきアートになる必要はない。

と書くとき、ここでもスミスは、表象される内容と、その表象するもの、その二重関係への反省を促しています。

ここまで見るとわかるように、巨大かつマルチメディアのインスタレーションが、その要素あるいは全体が芸術・表象であることを鑑賞者に忘れさせるような安易な演出を濫用することが、スミスの批判点です。
インスタレーションにおけるメディウムの混交やクレオール性は、レーベンティッシュによれば、それぞれのメディウムの可能性を個々の作品の形式から反照する契機でしたが、むしろその雑多性に安住してメインカルチャーの扇情的効果を真似てしまう点をスミスが批判するのは、レビュー冒頭で語られた、主要美術館など資本主義的権力へのインスタレーションの迎合に、制度だけでなく様式の面からも陥ってしまうことへの警戒でしょう。具体的なモチーフや主題自体を矢面に立たせるのではなく(飽き飽きした、とは言いますが)、表象への反省を欠いたスペクタクルへの邁進をスミスが批判している、という点に注目できます。
また《The Lazaretto》のように、ある集団の切迫を、匿名作者が「モノホン」として持ち出す演出が、インスタレーションにおいて獲得された特徴であることは、インスタレーション・アートとヴィデオ・アートの合流、またポストコロニアリズムの言説が定着した現代から再考すべき点です。

多けりゃいいわけではない(When More is Just More)

インスタレーション・アートのもうひとつの戦略。同じものを大量に置く。どんな素材でも、それだけをとんでもない量用意すれば、ちょっとした崇高の感じ*5を出せるチャンスがあるのだろう。

イメージの横溢だけでなく、物量の横溢もまた批判の対象です。空間を雲母で埋めてきらきらとした現象を作り出したイヴ・アンドリー・ララミーや、干し草を大量に用いたマイケル・ショウネシーをスミスは槍玉に挙げます。

少ないは多い(When Less Is More)

最後にスミスは、「素晴らしいわけではないが、その謙虚さや細部の意味が魅力的な」作品を紹介します。

ディラー&スコフィディオが螺旋階段に設けた作品は、隣の建物に設置された監視カメラの映像が映し出されています。典型的な、監視と窃視主義を主題にとった作品ですが、1993年当時の政治情勢や情報環境と、本展が、美術館の市街地への移設に際しているという文脈を踏まえると、少なくともサイト・スペシフィシティおよび文化制度への反省が見受けられます。
同様に建物への反応として、シカゴのコレクティブHahaによるインスタレーションが紹介されます。質素な家具を置き、テレビを点け、毎日新聞を置くことで、まるで建物が今も用いられているかのように演出しています。そのうえで、会期後に待っている爆破解体を思わせるように、壁面に埋め込まれた爆薬へと配線を繋いでいます。「Armory」の名の通りもともと兵薬庫だったこの建物の歴史を踏まえたインスタレーションです。
これらの作品は、窃視、爆破といういかにもセンセーショナルなモチーフを用いながらも、鑑賞者がいま居る当の建物を意識させることで、その状況や展覧会の開催自体が何を表象しうるのかへの反省を賦活する効果があります。その点で「モノホンショック」を安易に用いるのでも、「風化ショック」に訴えるのでもない、かつ小規模なデザインで成功しています。

スミスは、批判を向けた作品についてその怠慢、「素材や部屋へとアイデアを具体化してその成果自身に語らせるという大変な仕事に向き合う代わりに、ショートカットを使っている」点を改めて指摘します。もともとインスタレーションが、広い空間や施設を用いながらも、ある種の物理的・知覚的な「とるにたらなさ(pettiness」を批評的な戦略に用いていたことを、序文でスミスは指摘していました。

スミスの批判を改めて総括すれば、それは、量を量として、悲劇を悲劇、ものをそれ実物として提示するという、反省なきイマーシブなイマーシブだけに、インスタレーションの「リテラルネス*6」を還元してしまうことへの批判だといえるでしょう。

  1. キャサリン・エルウェス『インスタレーションと映像』第11章では、テレビやヴィデオの技術や文化を反省した実験映像やインスタレーションを多く紹介している。本展にも参加しているダラ・バーンバウムや、ジリアン・ウェアリングなどが、テレビの大衆的美学を採用しながら、そのイメージや制度への批判を含んだ作品の例に挙がる。いっぽうで、クレア・ビショップ『インスタレーション・アート:ある批評史』は映像やその暗闇への没入をインスタレーションのひとつの歴史的特徴として挙げる。このような「反省なき」空間芸術という系譜は、レーベンティッシュやエルウェス、ライスに論じられない側面である。大岩雄典, 2020, 「ダンスホール――空間の(再)空間化」ART RESEARCH ONLINE 註42も参照。
  2. ビショップは、ルーカス・サマラスのような、実際に中に入ることのできる情景のインスタレーションにたいし、ジョージ・シーガルやエド・キーンホルツのような、鑑賞者が関係できない(内含されない)ような作品を「タブロー(tableau)」と呼んだ。
  3. 上田高弘は、バーネット・ニューマンの作品に言われる「崇高」に触れながら、ニューマン作品における作品との鑑賞者との関係が、ダン・フレイヴィンのような作品において前景化している、と述べる。関心深いのは、ここで上田が「〔…〕いずれにしても、前景化とは一種の言語化です。言語化されてしまえば、それはすでに崇高ではありません」と付け加える点だ。これは整理すれば、没入的「崇高」は、インスタレーションにおいて反省される、といえるだろう。参照:上田高弘, 1997, 『歴史的インスタレーション』『美術手帖』1997年11月号, 美術出版社。
  4. ここでの「リテラルネス」の概念については、大岩雄典, 2021,「インスタレーションの異質な空間の空間化:プロセス化可能性とリテラルネス」『LOOP 映像メディア学 東京藝術大学大学院映像研究科紀要』Vol.11, 左右社, 東京藝術大学映像研究科編 も参照。